蛭ヶ岳(ひるがたけ) 御嶽三座神(おんたけさんざしん)
【データ】蛭ヶ岳 1673メートル▼25000地図 秦野、大山▼最寄駅 小田急線・渋沢駅▼登山口 神奈川県秦野市の大倉集落▼石仏 蛭ヶ岳山頂
【案内】丹沢大山の東山麓にある日向薬師の常連坊に残された日向山修験の丹沢峰入りの記録『峯中記略扣』は、江戸時代末期に書かれたものと『日向薬師』(昭和40 年、中央公論美術出版)にある。そのなかに蛭ヶ岳の山名は無い。不動ノ峰から先は「仙人ノ岩有 是ヨリ釈迦ガ嶽ニ岩有札納 是ヨリ北ニ下ル 水呑ノ小家有」となる。『日向薬師』では「釈迦ガ岳は蛭ヶ岳、水呑ノ小家は原小屋(今この小屋はない)」と解説している。一方『日本山岳案内1丹沢山塊』(昭和15年、鉄道省山岳部)には「毘盧ヶ岳、薬師ヶ岳とも云われる山であって、薬師ヶ岳とは薬師如来を祀るより出たもの」とある。かつては薬師如来の石仏もあったといわれている蛭ヶ岳だが、いまあるのは「御嶽大神 八海山大神 三笠山大神」と刻まれた木曽御嶽信仰の御嶽三座神の石塔。それから「昭和五年」の銘がある石碑。かつてあった御嶽講の講祖「盛心霊神」の霊神碑は見当たらなかった。霊神碑を建立した講とかたわらに建つ木祠を建立した講が「一心教会」と同名なので、「盛心霊神」は木祠に納められたのかもしれない。いずれにしてもこれらの石塔は、蛭ヶ岳に木曽の御嶽山が勧請されていたことの証しである。そして盛心とは、御嶽信仰の普及に努めた一心行者の弟子・盛心行者なのだろうか。ご存知の方がありましたらご教示願いたい。
【独り言】かつて木ノ又小屋の小屋番だった杉田耕一氏に「武田久吉の古い本に蛭ヶ岳の薬師如来が写っている」という話を聞いたのは25年前でした。その写真はいまだ見ることができないでいます。しかし写真には及びませんが、武田久吉著「四十年前の丹沢を語る」(『日本山岳風土記3』昭和35年、宝文館。『山と渓谷』昭和26年4月号掲載を再録したもの)に「蛭が岳に薬師仏を、その東に続く峰に不動尊を祀 り、それと黒尊仏のある塔の嶽の三峰を巡って参拝する講中もあって(略)その先達は武州南多摩郡由木村の竹内富造という人であった」という件をみつけました。この竹内富造という人は、塔ノ岳の水場(不動の清水)に不動の石仏を建立した人物なのです。その石仏には「明治十四年辛巳年 登山六十三度 多摩郡柚木大澤住 竹内富造建立」と刻まれています。とすると不動ノ峰の不動明王や蛭ヶ岳の薬師如来も竹内富造が建立したのではないか。あるいは、いま蛭ヶ岳にある御嶽信仰の石造物も竹内富造に関係があるのでは。などという推測もふくらんできます。その報告は次に蛭ヶ岳に登るまで、10年先か20年先かでしょうが、それまでに調べておきます。