大貫・浅間山(せんげんやま) 石祠・富士大神(ふじおおかみ)
【データ】 大貫・浅間山110メートル。国土地理院地図に山名無し。小松集落の西のピーク、地図の赤丸印▼最寄駅 JR内房線・千倉駅▼登山口 千葉県南房総市千倉町大貫の小松集落、地図の黒丸印▼石仏 浅間山の山頂、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより
【案内】 大貫の浅間山は、千倉と館山を結ぶ大貫街道と安房グリーンラインが交差するところが登山口。それほど登りもないまま進むと右手の高みに石燈籠が見えてくる。台座には、山印に「包」が刻まれている。安房に多い富士信仰の山包講が建てたものだ。山包講については、このブログの背波澤山(千葉)で案内しましたが、江戸の修山禅行(包市郎兵衛)が講祖で、千葉の本拠地は市原市五井。禅行の弟子の正行真鏡(池田作左衛門)が先達だった。房総の山の富士信仰石造物は、この山包講と木更津の穐行日穂の山水講が多く、誠行重山(秩父屋与兵衛)の山三講が若干みられる
石灯籠の上が浅間山の山頂。広い境内の奥に「富士大神」銘がある大きな石祠が鎮座している。富士山の神の名称はいろいろあり、江戸期に造立されたものは神仏混交からきている「仙元大菩薩」「富士仙元大菩薩」、明治期になると神仏分離で「浅間大神」「木花開耶姫命」などになる。権現や菩薩など仏教系の神名は大神に変更させられたのである。富士大神も明治になってからのものである。
石祠には二つの台座があり、上の台座に「明治七年戌大貫村/長狭郡仲居村/石工儀助」とあり、「加藤作右衛門/𠮷田治右衛門/小柴七右衛門」以下58名の名前がある。下の台座には「明治二十六年/先達/加藤万蔵/𠮷田治右衛門/小柴七右衛門ほか31名の名前がある。明治7年から26年の間に、加藤・𠮷田・小柴などの先達が生まれていたことになる。
【独り言】 房総の山は昨年の台風でそうとう荒れている感じだったので、登山を先延ばしにしていました。それでも冬になれば、家から近い房総の山が登りやすので出かけました。目指したのは安房観音札所26番小松寺あたりの山でしたが、心配していたとおり、寺からの道は通行止めでした。ここは無理したくないので大貫浅間山の登山口へ回ってみると、こちらも「倒木の為通行止め」の立て札がありました。そこで姑息な方法でしたが、立ち入り禁止とはなっていないね、と勝手に解釈して登り出しました。ところが道は意外に歩きやすくなっていました。この山は山麓の〝大貫古道の会〟のメンバーが登山道を整備しているので、その人たちの手によって少しずつ復旧しているようです。しかしそれも大貫浅間山までで、そこから先の尾根は倒木やがけ崩れの箇所がいくつかありました。
倒れている木は里近い杉林の杉がほとんどでした。杉は根の張り具合が小さいため倒れやすいようです。尾根筋のスダジイなど根のしっかりした照葉樹林でも根こそぎ倒れている木もありましたから、台風では想像もできない強烈な風が吹いたはずです。そして房総の山はどこもこんな感じなのかもしれません。