偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏番外 米山(新潟)尸羅場

2019年06月28日 | 登山

米山(よねやま) 尸羅場(しらば)


【データ】 米山 993メートル最寄駅 JR信越本線・柏崎駅登山口 新潟県上越市(柏崎町)柏崎区下牧石仏 各登山口の尸羅場、地図の赤丸印地図は国土地理院ホームページより▼上写真は吉尾口の尸羅場と大平口の尸羅場。下写真はそれぞれの石仏


【独り言1】 登山口とは別の場所に下山して失敗したことは前回の米山・地蔵菩薩で書きました。別の場所に下山した理由は尸羅場を見るためでした。
 米山の登山口は山麓にいくつもあります。南の柿崎には宿が整っていた水野と、米山薬師の別当寺・密藏院がある下牧。北には吉尾。東には谷根と小村峠。そして藤島玄氏の『越後の山旅・下巻』(注1)に「廃道化していたが、大正末年に村の伊左衛門が復興」とある大平です。この東西南北の尾根のそれぞれの八合目あたりに造られたのが尸羅場でした。女尸羅場ともいわれたこの場所は、女性が登れる最高点で女人堂があった女人結界の場所で、これより先の米山は女人禁制だったのです。渡辺三四一氏は「米山と女人救済」(注2)のなかで、「尸羅はサンスクリットで戒を意味する仏教用語」と紹介し、米山の結界が他の霊山より高所にあることについては、尸羅場は米山の遥拝所であり、これより先は難所であること、女人堂を立てて女人禁制より女人救済の場所としていることなどを指摘しています。
 その痕跡として、米山山麓にある姥薬師や胞姫神社など女人信仰があった寺社をあげています。『越後の山旅・下巻』の藤島氏は、米山を紹介した古い文献には、胞衣山、恵那山と記されていることを紹介しています。
 では、尸羅場にはどのような石造物があるのでしょうか。これまでそれぞれの登山口からの道を歩いてみましたが、雨に降られたり残雪が多かったりして成果は少ないものでした。谷根と小村峠の道が合流する東の尸羅場には、見てはいませんが熊野権現の石祠があるようです。表口の水野・下牧からの南の尸羅場には卵塔と避難小屋がありました。裏口の吉尾からの北の尸羅場には、前回の米山(地蔵菩薩)案内した西国三十三か所札所の本尊と地蔵の石仏がありました。そして大平からの西の尸羅場には「大正五年」年造立の地蔵菩薩がありました。
(注1)藤島玄著『越後の山旅・下巻』昭和54年、富士波出版社
(注2)渡辺三四一著「米山と女人救済-オンナシラバの解釈をめぐって-」平成6年『柏崎市博物館館報第八号』

【独り言2】 古くは男女の区別なく登れた霊山に仏教がはいると、修業の妨げになるという理由で多くの霊山では女人を締め出しました。これを破って登った女人が石にされてしまったという姥石は、各地の霊山にあります。加賀の白山、越中の立山などにもあります。それは山中の高いところで、裏を返せば女人は姥石の手前まで登っても良いということになります。ところが女人が登れるところを決めた姥堂・女人堂は山麓に建てられました。大峰山や立山にもあります。この姥石や女人堂は、いずれも高野山や大峰山など畿内の霊山に始まり周辺に広まった山岳信仰の形式でした。
 ところで、米山の女人堂である尸羅場は山頂が望める高所にあるはどうしてだろうと指摘され、先に案内したような理由が述べられているわけです。しかし先に書いたように霊山の結界である姥石が高所に祀られている例が多く、結界・女人堂の本尊から創り出されたとみられる姥神(霊山の結界あるいは禊場に祀られた石像で、そのおおもとは越中立山の姥堂に求められる神)も高所に置かれている現状をみますと、もともと高所にあった女人結界は、女人堂を考えたときに山麓に降ろされたものが、地方に伝わるにつれて当初の趣旨からズレて、再び高所に移動していったのではないでしょうか。


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