goo blog サービス終了のお知らせ 

偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏706 龍光山(千葉)龍神

2017年01月13日 | 登山

龍光山(りゅうこうざん) 龍神(りゅうじん)


【データ】 龍光山 177メートル(国土地理地図に山名無し。貝渚集落の南西177標高点)▼最寄駅 JR外房、内房線・安房鴨川駅▼登山口 千葉県鴨川市貝渚▼石仏 龍光山山頂、地図の赤丸印。青丸は東勝寺▼地図は国土地理ホームページより

【案内】 房総の最高峰・愛宕山から東に連なる嶺岡丘陵が終わるあたりにあるのが龍光山。登山口は路地奥の家と水仙畑の間の狭い道を進んだ先にある鳥居。山頂に鎮座するのは山住大神(やまずみのおおかみ)の社殿で、山の神である。それを囲むように愛宕・稲荷・御嶽・龍神などの石祠、石塔が祀られている。

 その一つ、龍神石祠の側面には「文政十丁亥年(1827)奉再建龍神石祠一宇 別当龍光山東勝寺」銘がある。台座には「雨請組合 施主三十三か村」に続いて「太尾村世ハ人名主三良左エ門」以下、来秀村・貝渚村など龍光山北山麓の村と名主銘が続く。内田栄一氏の『房総山岳志』の龍光山の項では、寛文四年(1664)の大旱のとき、山麓の東勝寺に来た木食三智法印が龍神を勧請して雨を降らせ、それを雨乞塚として龍光山に祀ったのが始まりと、『安房志』『安房沿革史』『安房町史』などから引いて案内されている。現在の龍神石祠は銘にある通り、別当の東勝寺の指導のもとに再建されたものである。
 房総の雨乞い碑については大多喜町の野々塚の法雨大明神でも案内したが、ここでも山麓の僧侶が指導して造立されていた。自然に働きかけて超自然現象を起させるには、修業を積んだ宗教者の呪術・呪文が必要であり、それを習得していたのが僧・行者だったのである。


 「御嶽」銘のある石祠は木曽御嶽を勧請したもので、流造りの破風に巴講の講印が刻されている。台座には巴講先達・発起人・世話人など大勢の名が連なる。その近くに御嶽信仰の象徴である霊神碑「五覚霊神」も立つ。これは長狭郡曽呂村の佐藤五郎八が七十五歳を記念して明治廿九年に建てたものである。


【独り言】 龍神を管理した東勝寺は龍光山の北山麓。貝渚の集落から車がやっと通れる道をたどった山の中にありました。真言宗の寺で無住。本堂に「五十一番貝渚村東勝寺」と御詠歌が揮毫された扁額が掛かっていました。本堂裏の高台には小規模な墓地があり、その中央に珍しい、六面の石幢があります。


 正面に丸い穴があいたこの形の石堂は、同じ鴨川市の清澄山でも案内しましたが、穴は僧になるため得度した者の髪を納めるためものということでした。ここ東勝寺の石幢の穴の目的はわかりませんが、下には「血盆経一基」とあます。血盆経は、地獄の血の池に落ちる運命にある女性を救うためのお経です。女性はいろいろな血で地を汚すため血の池に落ちるのだそうです。背面には「寛文十庚戌天(1673)造立」、それから「法印三智」とありました。三智はさきに案内した龍光山に祀られた龍神を勧請したと伝えられている僧。この石幢については『鴨川の石造物百選』(注)に取り上げられていますので、それから引用します。「千葉県下唯一の血盆経です。(略)本塔は江戸時代前期の寛文十年銘が刻まれ、法名も院殿号を伴うことから、被供養者は大名家の女性である可能性が考えられます。法印三智益寶を導師として、血盆池より以来主の救済する修法が厳粛に執り行なわれたことが窺えます」。
(注)『鴨川の石造物百選』鴨川市教育委員会、平成25年
(参考)偏平足「姥神・血の池」


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 石仏705 仙丈ヶ岳(長野)勢... | トップ | 石仏番外 羽黒山(千葉)羽... »

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。