赤沢富士(あかさわふじ) 磨崖仏(まがいぶつ)
【データ】赤沢富士 275メートル▼国土地理院25000地図 野口▼最寄駅 JR水郡線・常陸大宮駅▼登山口 茨城県城里町石原の赤沢新農村集落センター▼石仏 赤沢富士の南山麓、孫根の山中。地図の赤丸印
【独り言】赤沢富士から峠を一つ越えた孫根の集落はずれに「壁面観音」という場所があるので寄ってみました。集落の奥の山中、道から少し離れた山裾に建つ御堂がその場所です。古びた御堂の扉に鍵はなく、脇の板戸を開けてなかに入ると、正面の本尊が安置されるところが観音開き格子戸になっていて、その奥の岩壁にできた岩穴に石仏の顔が浮かび上がりました。まさに壁面観音にふさわしい十一面観音の磨崖仏でした。城里町の案内では、「平安時代に徳一大師の作になる十一面観音で町指定文化財」ということでした。
徳一は平安時代初期に、奈良から東国の会津に移り住んで仏教の布教をした法相宗の僧です。会津への途中にあたる茨城にも徳一の痕跡があり、筑波山にある坂東札所第25番大御堂(おおみどう)も、古くは徳一が開いた中禅寺であったと伝えられています。徳一はさらに北上して磐城から会津へ向かうのですが、磐城でも布教をしていくつかの寺を開いたことが伝えられています。その一つが南相馬市小高区泉沢にある大悲山薬師堂の磨崖仏です。佐藤俊一著『福島県の磨崖仏』(平成2年)によると、国分寺として開かれたこの寺に、徳一が作ったとされる磨崖仏は前窟薬師、前窟阿弥陀、後窟観音からなる磨崖仏群で、後窟観音に彫られた十一面千手観音が本尊とされています。この磨崖仏の特徴はかぎりなく丸彫りに近い厚肉彫りで、頭部は耳の後ろまで、趺坐した足はお尻ちかくまで掘り出しているところです。しかしこの一帯は、先の東日本大震災による東電原発の放射線汚染により立ち入り禁止になっています。
大悲山のほかにも、磐城周辺には同様の磨崖仏が残っており、さらに阿武隈山地周辺には中世から近世にかけての多くの磨崖仏が残されています。それにくらべ茨城には磨崖仏が少なく、この壁面観音の他には、日立市の小木津の岩地蔵と筑波山ろく(かすみがうら市)志筑山の百体磨崖仏ぐらいしか見当たりません。
壁面観音に戻りますが、自然にできた岩屋の奥の狭スペースを利用したこの十一面観音は、頭部しかありません。胸から腰あたりまでは荒彫りされたままで、まったく手つかずの状態。途中で中断したという感じです。「徳一が一夜で完成させるつもりが、途中で朝になってしまたため」という地元の伝承もあるようですが、本尊として御堂の内部から見る限り、頭部だけでなんの違和感はありませんから、当初からそのつもりで造立したように見えます。かぎりなく丸彫りに近い十一面観音ですが、大悲山薬師堂の磨崖仏にくらべると、厚みがたりないように見えました。壁面観音、地元では平安時代の作としています。
【追伸】壁面観音がある御堂の境内に、何かを持った結跏趺坐の菩薩系の石仏がありました。持ち物は水桶のようにも見えます。結跏趺坐の姿から子安観音のような女人信仰の石仏のようにも見えました。ご存知の方がおりましたら、教えてください。
【房総石造文化財研究会・苔華さんのコメント】
追伸の石仏は…水桶を持った観音って面白いなと思って写真をみましたが、子安観音のようです。残念なことに観音が抱いている赤ん坊の頭部が欠落してしまっていて、いきなり産着の袖が広がっているので何なのか解らないようですが、観音の手はしっかり赤子を抱いていますね。像の右側に薄っすらと「奉十七…」と彫ってあるようですので女性達が造立した十七夜塔かもしれません。