偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏926八ヶ岳・大岳(長野)木花開耶姫命

2020年08月21日 | 登山

八ヶ岳・大岳(おおだけ) 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

【データ】 大岳 2382メートル▼最寄駅 JR中央本線・茅野駅▼登山口 長野県茅野市蓼科の横岳ロープウェイ駅▼石仏 大岳山頂、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより

【独り言】 夏休み恒例の孫たちとのキャンプもこれが三度目。今回は八ヶ岳北側にある駒出池キャンプ場でした。いつも登山用のテント持参で付き合ってきましたが、粗末なテントを見かねたのか今回はバンガロー利用でした。しかしキャンプ場での過ごし方を知らない私はいつも皆を山に連れ出します。今回はロープウェイ利用の北横岳。キャンプ場もそうでしたが、新型コロナウイルス蔓延の最中でも北横岳は老若男女や子供たちでいっぱい。山は密閉はないので二密状態、これなら心配無しでしょうか。

 北横岳といえば、このブログの石仏693北横岳で案内した修那羅大天武の石仏です。皆には内緒でしたが、登山の目的はこの石仏の再訪も兼ねていました。しかし登りついた山頂は霧の中。それに石仏がありません。地図を見た孫は奥にもう一つ高いピークがあるというので、さらに進むと霧のなかに「修那羅大天武」の文字塔と頭部のない天武像がありました。修那羅大天武の周りに積まれた石の数がすっかり少なくなっていて寂しい状況でしたが、久々の再会に一人満足。それにしても、過去の記憶がうすれつつある偏平足です。
 北横岳の奥には大岳という山があります。今回はファミリー登山ですから行きませんでしたが、大岳にも石仏があるので、35年前の資料から案内します。


【案内】 当時の記録には「大岳の山頂一帯は背の低い灌木が所々にあるだけで、あとは火山特有のくっつきあったような岩がゴロゴロしている。そんな岩の根元に二体の石仏があった。右側の立像は高さ41センチ。両手で棒状のものを担ぐように持つ。観音とも童子とも判断に迷う石仏で、どちらかといえば童子に近い。左側は高さ44センチ。頭部と両手もなく、ひどく傷んでいる。仁王のように両足を踏ん張っている」とある。改めて写真を見てみると、右側の像には銘があるものの、記録されていない。
 大岳には20年前にも登っていて、銘を「奉祭富士木花尊」と記録していた。富士山の神・木花開耶姫である。木花開耶姫は冠をつけた和装で、四手を垂らした榊をもつ姿が基本。このときの写真も見てみると、頭部に模様がある鉢巻き状の縁取りがあり、着物のたもとが両側に下がっている。両手で持つ枝状の物は、先端が風化していて何であるかは不明。したがって、ここでは「奉祭富士木花尊」銘から木花開耶姫命、両足を踏ん張っている石像を仁王としておく。


 大岳からの道は北の双子池に下り、そこには不動明王と定印の僧形坐像がある。これらの石仏と大岳の石仏が関係するのかどうかはわからないが、佐久側から二子池、大岳、北横岳を結ぶ信仰の道があっての石仏造立と思われる。
 修那羅大天(1795~1872)は江戸時代末期の越後の頚城郡大鹿村の人。先祖は信濃佐久の望月氏で戦国期に越後に下って帰農した家柄。各地の山岳修行地を巡って修行を重ねた行者で、宗教の拠点としたのは佐久から少し離れた筑摩郡坂井村の修那羅峠の安宮神社。大天武は「農民に自分の手で石像を彫刻することを作善として勧めた。それの出来ない者には山に小石を奉納せしめた」(注)。これにより、安宮神社周辺には約700にも及ぶ石造物が奉納された。しかしそのなかに木花開耶姫らしき像はみていない。
(注)南湖峯夫著『大天武一代記』昭和58年、中央公論事業出版
【参照】偏平足・修那羅峠


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