テニスと読書とデッサンと!

忘れられない歌。

恥ずかしがり屋のジャックは

いつも自分が音痴であることを隠すために

ハンナの前でわざと音程を外しておどけながら歌う。

一方のハンナは歌が上手いし歌うのが大好き。

ふたりがデートしている時は

たいていはクルマの中でハンナが歌い

途中からジャックも混ざるのだけれど

ジャックはすぐに歌うのをやめて

ハンナの美声に聞き惚れてしまう。

 

ハンナには別れた夫との間に

3歳になるデビッドという男の子がいる。

仕事に出かけるウイークデイは

子どもを保育所に預けている関係で

ハンナは時々腕時計を確認する癖ができている。

 

その日ハンナとジャックは有給休暇を取って

ドライブデートを楽しんだあと、

ジャックはクルマを海沿いの駐車場に停めて

ハンナを浜辺の散策に誘った。

夕方の浜辺は海風がかなり強く、

打ち寄せる波の音がときどき

浜辺を歩くふたりの会話をじゃまする。

「えっ、なに?」

「あそこで少し休もうか」

ジャックが半分ほど砂に埋もれたまま

船底を晒しているボートを指差すと、

ハンナは髪を手で押さえながら頷いた。

それからふたりはそこに座って

しばらく海を見つめていた。

やがてジャックはなにかのタイミングを

図っていたみたいに立ち上がって

「もう少し時間はあるかい?」そう聞くと

ハンナは時計をちらりと見て

「ええ」と笑顔を見せた。

「ちょっと歌を歌ってみたいんだけど

聞いててくれる?」と顔を赤らめた。

ハンナはびっくりしたけれど

もちろんよとパチパチ手を叩いて

ジャックの歌声を聴くために姿勢を正した。

たったひとりのオーディエンスを前に

目をつむって歌い始めるジャック。

ハンナはジャックが歌う英語の曲を知らなかった。

 

しばらく黙って聴いているうちに

あれっ?っと思った。

いつも陽気で照れ屋のジャックが

おどけた仕草を見せていない。

せっかく心の中に笑いを準備したのにと

ハンナはほんのちょっとだけがっかりした。

ジャックの目はずっと閉じられたまま。

ハンナはジャックの両方の手の平が

固く結ばれていることに気がついた。

上手に歌おうとしているみたいなのだけれど

やっぱりときどき音を外してしまう。

最初はいつものようにわざとかと思って

クスッと笑っていたけれど

しばらく黙って聴いているうちに

そうではないことを悟った。

 

英語が苦手なハンナは

ジャックが歌っている歌詞の意味が

ほとんど分からなかった。

ただはっきりと聴き取れたのは

何度も繰り返される

・・・Little girl I wanna marry you

というフレーズだった。

なんで?なんでいつものように

おどけて私を笑わせてくれないの?

そう思いながらハンナはジャックの歌声を

黙って聴いているうちに

自分でも分からないなにか熱いものに

身体が包まれていくような感じがしてきた。

声を張り上げ懸命に歌うジャックを

見つめているうちにハンナの目から

大粒の涙が頬を伝い始めた。

やがて歌い終えて目を開けたジャックは

ハンナが泣いていることを知った。

ジャックが照れたような笑顔を見せると

ハンナも泣きながら笑顔を作った。

ハンナの背はジャックの肩くらいまでしかない。

ジャックは少し前屈みになって

ハンナの背中に手を回しそっと抱きしめた。

ハンナは砂に足を取られそうになりながらも

背伸びをしてジャックの首に細い両腕を巻きつけた。

ハンナの涙がジャックの襟足を濡らす。

しばらくふたりは抱き合ったままでいた。

「まだジャックの歌声が聴こえているわ」

「えっ、なに?」

波の音がじゃまでジャックが聞き返す。

「ステキな歌ね。なんていう歌?」

「ブルース・スプリングスティーンの

I wanna marry youだよ」

「もう一度聞きたいわ」

そう言ったあと、ふたりの口づけが長く続いた。

「一緒にデビッドを迎えに行こう」

ジャックはハンナの涙を親指でやさしく拭った。


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「diary」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事