テニスと読書とデッサンと!

自分に出会った日(その2)

ぼくはあの頃ピッチャーになりたくて、

よく近所の米軍施設の壁にチョークで

ストライクゾーンの四角を書いて、

何時間も投球練習をしていた。

思い通りのコントロールがつかなくて

カーブのキレが悪くて、

もう終わりにしようと思いながら、

気がつくとすっかり陽は落ちていた。

ボールの跡がいくつもついた汚い壁に

白いチョークのストライクゾーンが浮かんで見えた。

あの時からどのくらい時が経ったのだろう。

ぼくは小学校を卒業すると同時に

大好きだった野球をやめてしまった。

 

翌朝は目覚ましが鳴るより早く目覚め、

前日の出来事を思い返しながら

トレーニングウェアに着替え、

収納棚にしまってある軟球を取り出して、

いつもより早くエレベータで下に降りた。

このまま出発すると早すぎると思って、

静まり返ったエレベータホールで

入念なストレッチを行い、

携帯電話で時刻を確認しながら

いつものコースを走り始めた。

前日とは違ってその日の朝の空は

厚い雲に覆われていたけれど、

それほど寒さは感じなかった。

走るリズムがうまくつかめない。

吸って吸って吐いて吐いて。

呼吸に神経を集中しながらいつもより

意識的に腕の振りを大きくしていくと、

次第に身体が一定のリズムを刻み始める。

吸って吸って吐いて吐いて。

 

南高橋を渡って隅田川テラスに出ると

自然にストライドが広くなってペースが上がった。

あの少年は昨日の場所にいるだろうか。

たぶん落としたボールはどこかに

流れて行ってしまったに違いない。

やがて佃大橋の下まで来たけれど

少年は見当たらなかった。

ぼくは今朝目が覚めた時からなんとなく

あの少年にはもう会えないかもと感じていた。

少年と会話を交わした昨日の場所で

しばらく足を止めてみた。

当たり前のことだけれど川面を探してみても

ボールはもうどこにも見当たらなかった。

植え込みから拝借したアルミの支柱は

元の位置に納まっている。

ぼくは左手に握っているボールを

右手に持ち替え壁に向かって投げてみた。

もう一度、そしてもう一度・・・。

ちょうど築地方面から曳航船が

テラスの静寂を破るようなエンジン音を

立ててぼくの後ろを横切って行く。

ぼくがしばらくボールを壁に向かって

投げ続けているとふと昨日の少年の

「ありがとう」という声が

聞こえたような気がした。

けれども振り向いてももちろん少年はいない。

気がつくとぼくは壁からバウンドしながら

戻ってくるボールを後逸し、

そのまま隅田川に落としてしまった。

まるで夢を見ているような

誰かに柔らかく騙されているような

気持ちになって川面に浮かぶボールを見た。

ボールは突然冷たい水の中に

転がり落ちた驚きで固まってしまったように

位置を変えずにプカプカ浮いていた。

ふと無意識に植え込みの支柱に目をやる。

なんの変化もない。

ぼくはその不思議な場所からようやく離れ

昨日と同じように再び走り始めた。

でもぼくの耳はまだ少年の声を探していた。

残念な気持ちで心がいっぱいになるのを

感じながらぼくは隅田川テラスを走る。

勝どき橋を渡る辺りでは

魚河岸で働く多くの人たちとすれ違った。

誰も忙しそうに通り過ぎていく。

寒さも苦しさもまるで感じられなかった。

このままどこまでも走って行ける。

ぼくはたぶんあの頃の自分に出会ったのだ。

本当はもう一度少年に会いたかった。

あの場所で、あの時間に。

だからこそぼくはボールを持って走った。

少年との約束を信じて。

あれからしばらくの間あの場所を通るたびに

少年を探してみたけれど

ついに少年と会うことはなかった。

でももしかしたら少年はあの日、

再びあの場所にいたのかも知れない。

 

ぼくの落としたボールと

少年が落としたボールは広い海のどこかで、

時空を超えて出会うだろうか。

そんなことを考えていると8年を経た今でも

ぼくは不思議な幸福感に包まれるのだ。


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