ある本を読んでいたら、とても心に残る文章を見つけたので備忘録として、ここに記載しておきます。
これは非常に深い考え方なのです。そのままでよいというのは、単純な肯定ではないようですね。文字通り「そのままでよい」というのは、一種の妄想です。この解釈は難しいものです。
「そのままでは困っている」から悩んでいるのではないでしょうか。そうです。「そのままで良い」わけはないのです。
でも、「そのままで良いのです」この矛盾はどう解けばよいのでしょうか?
人間は「そのままでよい」と言われても変化するものです。そのままでいられるわけがありません。
その変化の仕方を言っているのです。「そのまま、あなたの自発的な動機で変化してください」という意味です。
他者に言われて動くのではなく、自発的な動機をそのままと表現しているのです。
さて「できない自己や他者」は認めれらない、という考え方がありますね。
以前私のブログで「認め合うこと1」と題して、障害施設の話を書きました。「みんな精一杯しているから、報酬は同じでいい」と言った人の話です。
彼は色々な人の障害の程度をすべて認めているのです。仕事の能率で他者の値打ちを決めていないのです。「人それぞれの障害のレベルの違いはあっても精一杯やれば、みんな同じ、努力はみんな同じ、だから収入もみんな同じ」という認め方をしているのです。AさんはBさんのようにはできなかったけど、Aさんは自分の能力をすべて出すことができた、という認め方です。「できない」ということと「出来なかった」は違います。「できない自分」は認められるわけがありませんが、「できなかった自分」は認められるのです。
何が違うか、実践があるかないかです。実践すれば「なぜできなかった」がわかるのです。それがわかるという到達の仕方をしたので、認められるのです。
何もしないで「できないわたし」といっている人は単なる怠け者であって、認められるわけがないのです。心はつながるためにあり、つながるための機能をもっています。「できなかったわたし」はその心の機能を使うことができたのです。ですから「できなかったわたし」であっても、心には満足感があります。
「できないわたし」は実践がないので、心の機能の使いようがありません。いつまでたっても心は不満だらけなのです。私達の心身はその機能を使って幸せになるようにできています。「できない」と嘆いている間は人とつながれないので不幸です。「できなかった」人は「できなかった」体験を連続できます。「できなかった」体験は何かを学ぶ連続ですから楽しく、そのうち「できた!」体験になりますから、これが成功体験になるのです。
こうなると「できなかった」体験は、成功したとき、すべて成功体験だったとわかり、次のステージに入ります。「失敗は成功の母」という言葉はそういう体験ですね。
では、なぜ多くの人はしようとしないのでしょうか。「できなかった体験」は、実は成功の体験なのに。それは以前に「やったのにできなかった」体験があり、できなかった自分を責めていたからです。自分を責めるのは辛い事なので、だんだん消極的になってしまったのです。
なぜ、自分を責めたのか、そこにすべての問題が潜んでいるのでしょう。それは、「なにがあなたにはできるのか」に人間的価値を求める傾向が現代社会にあるからです。できるか、できないかだけに特化した人間評価に子供時代からさらされてきたために萎縮してしまっているのです。
子供時代に「あなたは、やればできる」といい続けられてきた子供は、「もしかしてやってできなかったらどうなるのっだろう、期待も裏切られないし・・・」という矛盾にっ苦しめられ、その結果として「なにもしない」とおいう解決法を導いてしまったのです。「なにもできない私」とは、実は「何もしたくない」という本音があり、それが無力感や自信のなさ、自尊感情の欠如として表れるわけです。できるということに絶対的価値を見出している両親や教師、上司が「やればできる」というと、それは「なにもできない」人を非実践的な人を作り出してしまうのです。では、どうするか、
「やれば、きっとなにかが変わるよ」
といえばいいのです。つまり、「やることができる」という価値を付与すればよいだけなのです。
これは非常に深い考え方なのです。そのままでよいというのは、単純な肯定ではないようですね。文字通り「そのままでよい」というのは、一種の妄想です。この解釈は難しいものです。
「そのままでは困っている」から悩んでいるのではないでしょうか。そうです。「そのままで良い」わけはないのです。
でも、「そのままで良いのです」この矛盾はどう解けばよいのでしょうか?
人間は「そのままでよい」と言われても変化するものです。そのままでいられるわけがありません。
その変化の仕方を言っているのです。「そのまま、あなたの自発的な動機で変化してください」という意味です。
他者に言われて動くのではなく、自発的な動機をそのままと表現しているのです。
さて「できない自己や他者」は認めれらない、という考え方がありますね。
以前私のブログで「認め合うこと1」と題して、障害施設の話を書きました。「みんな精一杯しているから、報酬は同じでいい」と言った人の話です。
彼は色々な人の障害の程度をすべて認めているのです。仕事の能率で他者の値打ちを決めていないのです。「人それぞれの障害のレベルの違いはあっても精一杯やれば、みんな同じ、努力はみんな同じ、だから収入もみんな同じ」という認め方をしているのです。AさんはBさんのようにはできなかったけど、Aさんは自分の能力をすべて出すことができた、という認め方です。「できない」ということと「出来なかった」は違います。「できない自分」は認められるわけがありませんが、「できなかった自分」は認められるのです。
何が違うか、実践があるかないかです。実践すれば「なぜできなかった」がわかるのです。それがわかるという到達の仕方をしたので、認められるのです。
何もしないで「できないわたし」といっている人は単なる怠け者であって、認められるわけがないのです。心はつながるためにあり、つながるための機能をもっています。「できなかったわたし」はその心の機能を使うことができたのです。ですから「できなかったわたし」であっても、心には満足感があります。
「できないわたし」は実践がないので、心の機能の使いようがありません。いつまでたっても心は不満だらけなのです。私達の心身はその機能を使って幸せになるようにできています。「できない」と嘆いている間は人とつながれないので不幸です。「できなかった」人は「できなかった」体験を連続できます。「できなかった」体験は何かを学ぶ連続ですから楽しく、そのうち「できた!」体験になりますから、これが成功体験になるのです。
こうなると「できなかった」体験は、成功したとき、すべて成功体験だったとわかり、次のステージに入ります。「失敗は成功の母」という言葉はそういう体験ですね。
では、なぜ多くの人はしようとしないのでしょうか。「できなかった体験」は、実は成功の体験なのに。それは以前に「やったのにできなかった」体験があり、できなかった自分を責めていたからです。自分を責めるのは辛い事なので、だんだん消極的になってしまったのです。
なぜ、自分を責めたのか、そこにすべての問題が潜んでいるのでしょう。それは、「なにがあなたにはできるのか」に人間的価値を求める傾向が現代社会にあるからです。できるか、できないかだけに特化した人間評価に子供時代からさらされてきたために萎縮してしまっているのです。
子供時代に「あなたは、やればできる」といい続けられてきた子供は、「もしかしてやってできなかったらどうなるのっだろう、期待も裏切られないし・・・」という矛盾にっ苦しめられ、その結果として「なにもしない」とおいう解決法を導いてしまったのです。「なにもできない私」とは、実は「何もしたくない」という本音があり、それが無力感や自信のなさ、自尊感情の欠如として表れるわけです。できるということに絶対的価値を見出している両親や教師、上司が「やればできる」というと、それは「なにもできない」人を非実践的な人を作り出してしまうのです。では、どうするか、
「やれば、きっとなにかが変わるよ」
といえばいいのです。つまり、「やることができる」という価値を付与すればよいだけなのです。