木曽川 長良川 揖斐川
木曽三川の宝暦治水に興味を持ち工事跡を訪ねた。
宝暦3年(1753年)から一年余り、薩摩藩士の大きな犠牲で成し遂げられた難工事。
木曽川・長良川・千本松原・揖斐川
木曽三川国営公園
岐阜県海津市油島から三重県桑名市まで、揖斐川と長良川に挟まれた県道を走る。
水位が高く、川の迫力が強く感じた。「凄い! すごい!」
こんな大きな川の治水工事は相当に恐怖を感じたと思う。
(薩摩では霧島高原から天降川が大きいかな?)

川の流れがこんなに入り組んでいる。治水工事は相当に難しい。
美濃地方の平野で木曽三川が合流し江戸時代以前は氾濫が常態化していた。
尾張地方は徳川幕府の意向で堤防(御囲堤)は高くなっていたが、海口地域は氾濫があった。
江戸時代の新田開発により、河川内の輪中での農耕地の開発が進み、
木曽三川の氾濫は人命、農作物への被害が大きくなってきた。
河川の中に堤を作ってその中で農業生活する農民も命がけであったろう。
土を盛り上げた田んぼ(堀田:ジオラマ)
宝暦3年4月 幕府は美濃に役人を派遣し「治水工事の願いを出すように」と言い渡した。
(40通余りの願出書が出された)
12月 幕府は薩摩藩・江戸家老に「木曽三川の治水工事の御手伝普請の奉書を下した。
工事範囲は、愛知県中島郡~三重県桑名郡~岐阜県安八郡とその周辺の広範囲。
工事区間は、一の手(13ケ村) 二の手(14ケ村) 三の手(100ケ村) 四の手(30ケ村)
宝暦4年1月 薩摩藩家老・平田靱負を総奉行に、約1000名が薩摩を出発。
2月 寒い中、着工。 3月 一の手着工。
平田靱負像と薩摩藩工事役館跡・大巻(一般民家)
農繁期は作業しない、輪中住民の利害関係、洪水など制約が多い難工事。
特に難工事は、長良川と揖斐川を分ける大榑川洗堰の工事と、長良川と木曽川の油島の締め切り堤。
養老山脈と揖斐川
薩摩藩士84名が自刃、ケガ、病気で亡くなり、
総奉行・平田靱負は工事竣工引渡済を報告し、費用が当初より4倍になり、薩摩藩に迷惑をかけたとして、切腹。
治水神社の慰霊の名簿
地元民で幕府役人の下男・枡谷伊兵衛は洪水は水神の怒りと思い、人柱になり濁流に身を投げた。
幕府の役人・内藤十左エ門は地元民が言う事を聞かないとして自害。
悲惨で大きな犠牲を払い、一年余りで工事は終了した。
犠牲者は、岐阜県羽島市、海津市、三重県桑名市まで多くのお寺にお墓があり、地元・鹿児島にもあります。
平田靱負の亡骸は京都伏見・大黒寺に送られた。
油島の隼人橋
油島の千本松原は、工事終了後、薩摩藩士達が薩摩から黒松を取り寄せて植えたもの。
宝暦治水のあと、明和治水、明治にはオランダ技師ヨハネス・デレーケの調査等が続いた。
明治45年(1912年)木曽三川の分流が完成した。
(宝暦治水の後のことは改めて整理したいと思う)
木曽三川の宝暦治水に興味を持ち工事跡を訪ねた。
宝暦3年(1753年)から一年余り、薩摩藩士の大きな犠牲で成し遂げられた難工事。



岐阜県海津市油島から三重県桑名市まで、揖斐川と長良川に挟まれた県道を走る。
水位が高く、川の迫力が強く感じた。「凄い! すごい!」
こんな大きな川の治水工事は相当に恐怖を感じたと思う。
(薩摩では霧島高原から天降川が大きいかな?)

川の流れがこんなに入り組んでいる。治水工事は相当に難しい。
美濃地方の平野で木曽三川が合流し江戸時代以前は氾濫が常態化していた。
尾張地方は徳川幕府の意向で堤防(御囲堤)は高くなっていたが、海口地域は氾濫があった。
江戸時代の新田開発により、河川内の輪中での農耕地の開発が進み、
木曽三川の氾濫は人命、農作物への被害が大きくなってきた。
河川の中に堤を作ってその中で農業生活する農民も命がけであったろう。


宝暦3年4月 幕府は美濃に役人を派遣し「治水工事の願いを出すように」と言い渡した。
(40通余りの願出書が出された)
12月 幕府は薩摩藩・江戸家老に「木曽三川の治水工事の御手伝普請の奉書を下した。
工事範囲は、愛知県中島郡~三重県桑名郡~岐阜県安八郡とその周辺の広範囲。
工事区間は、一の手(13ケ村) 二の手(14ケ村) 三の手(100ケ村) 四の手(30ケ村)
宝暦4年1月 薩摩藩家老・平田靱負を総奉行に、約1000名が薩摩を出発。
2月 寒い中、着工。 3月 一の手着工。

農繁期は作業しない、輪中住民の利害関係、洪水など制約が多い難工事。
特に難工事は、長良川と揖斐川を分ける大榑川洗堰の工事と、長良川と木曽川の油島の締め切り堤。

薩摩藩士84名が自刃、ケガ、病気で亡くなり、
総奉行・平田靱負は工事竣工引渡済を報告し、費用が当初より4倍になり、薩摩藩に迷惑をかけたとして、切腹。

地元民で幕府役人の下男・枡谷伊兵衛は洪水は水神の怒りと思い、人柱になり濁流に身を投げた。
幕府の役人・内藤十左エ門は地元民が言う事を聞かないとして自害。
悲惨で大きな犠牲を払い、一年余りで工事は終了した。
犠牲者は、岐阜県羽島市、海津市、三重県桑名市まで多くのお寺にお墓があり、地元・鹿児島にもあります。
平田靱負の亡骸は京都伏見・大黒寺に送られた。


油島の千本松原は、工事終了後、薩摩藩士達が薩摩から黒松を取り寄せて植えたもの。
宝暦治水のあと、明和治水、明治にはオランダ技師ヨハネス・デレーケの調査等が続いた。
明治45年(1912年)木曽三川の分流が完成した。
(宝暦治水の後のことは改めて整理したいと思う)
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