気ままなテーマです。

体験や感じたことを気ままな時に投稿します。

新宿御苑

2016-04-25 09:55:19 | 日記
天気が心配でしたが、久しぶりに新宿御苑に行きました。
YOU(外国人)が一杯

 

入場者の半分がYOU(外国人)の感じ。大声出しているのは中国人とすぐわかる。団体行動も中国人
 

午後から日差しが出て、カップルも増えてきた。
  

 

 
桜は終わり、ツツジが色鮮やか
 

日本庭園や雰囲気の場所がYOU(外国人)に人気の様子
 

金印 志賀島

2016-04-21 11:53:31 | 日記
福岡県立博物館に展示の「志賀島の金印」
江戸時代、農民が畑を耕していて発見された。


建武中元二年(西暦57年)倭国王が帥升が生口160人朝貢し、後漢の光武帝から授けられたとされる。

刻印の意味に議論がある処です。
刻印は【漢委奴国王】で、改行は【漢】【委奴】【国王】になっている。

①「委」は「倭」の間違いの説。倭国
②「委奴」は「伊都」の国を示す説。伊都国は一支である。
③「奴国」示す意見。多くの研究者が賛同しているが、印の意味で議論が続いている。
二つの国王が刻まれた印はあり得ないし、奴国王が刻まれ漢国王と刻まれないのはあり得ない。




【漢委奴国王】は【漢】が【奴国】を【委ねた】との意見が強いが、
漢文として考えると、【漢】に【奴国王】が【服した】の意味となる。


【委】の漢意をみると「芯がなく、くねくねする」
「委蛇」は蛇がくねくねする様子。
【任委】漢文と【委任】日本語の熟語がある。
意味として
「委任○」は「○に委ねる任務」
「任委○」は「○が委ねた任務」、金印の刻印はこれと同じで
「漢委奴国王」で「奴国王は漢に委ねた」となる。


後漢書や魏志倭人伝によると57年以後の倭国歴史との関係で得心できる。
倭国は、環濠集落ごとのくにグニの合衆国・共和国のようなものでその一つが奴国。
奴国は半島・弁辰の鉄輸入権益を得る為、後漢に朝貢して服従した。
その後、後漢が滅びると、奴国は後ろ盾を失い、鉄の権益で倭国は大乱になった。
経済の戦いは、宗教的に終息させる手段として、鬼道(道教)の卑弥呼が共立王となった。


卑弥呼がどのように道教を習得したか?今の「天皇」の名称は道教で最高位である。
それが、邪馬台国/邪馬壱国と卑弥呼の推理になる。

邪馬台国・邪馬臺国? 邪馬壹国(やまいちこく) その二

2016-04-18 12:58:45 | 日記
後漢の時代は西暦25年~220年、その後、魏・蜀・呉の三国時代(220~265年)に入った。
『後漢書』は范曄(398~445年)が編纂したが、『魏志倭人伝』は280年に編纂された。その時期は范曄が生まれる前。


『後漢書』全115巻 撰者・范曄 5世紀 「倭伝」の文字数740(大文字換算)
「倭伝」の出所:『前漢書』「地理志」撰者・班固(後漢)および『論衝』撰者・王充(後漢)および『魏志倭人伝』
転記による国名や時代の実態齟齬が多く、写筆の人が複数で筆跡も違う(除仁、李昇、朱梓など)
「倭伝」は後漢書・全115巻の内、75巻目で写筆の時期が遅かったと思われる。

邪馬台国の記述:邪馬臺国
『後漢書』除仁の筆

『後漢書』李昇の筆


『三国志』全30巻 撰者・陳寿 3世紀 「倭人伝」の文字数1825
「魏志倭人伝」の出所:正始元年(240年)魏が倭国訪問および魚拳(陳寿と同年代)の『魏略』
魏志倭人伝は一人の人物の筆跡と思われる

邪馬台国の記述:邪馬壹国
『魏志倭人伝』


『(前)漢書』「地理志」の「燕地・倭人条」の「倭」は、本文:20文字、釈文:85文字程度

邪馬臺国 邪馬壹国 どちらが???

漢字が日本に伝わったのは早いが、日本人が漢字として認識し始めたのが2~3世紀頃
それまで漢字は伝わっていたが、文様として見ていたようです。
日本人の大陸や半島との伝達は、口語が主であった。


紙が日本伝わったのが(はっきりしないが)5~6世紀
これらの事から、日本人の語り口語を中国人が漢字に置換したと理解できる。


『後漢書』で「邪馬臺国」の記述に続いて
注釈的な小文字で「案今名邪摩惟音之訛也」と記述されている。
このことは「この名はヤマイの音訛り也」と理解できる。

とすれば、『後漢書』も『魏志倭人伝』と同じ「邪馬壹国」となる。


邪馬台国・邪馬臺国? 邪馬壹国(やまいちこく)

2016-04-15 22:08:24 | 日記
魏志倭人伝にまつわる資料を読んでいくと、その範囲は広がる。
陳寿が編纂したのが西暦280年頃と言われていますが、魏志倭人伝の背景を探ると
紀元前1600年、中国・殷王朝の史料もみたくなった。

倭人と中国大陸の交流はその頃もあったようだ。
縄文時代の後期



魏志倭人伝では邪馬台国でなく【邪馬壹国】(やまいちこく)が正しい。

倭人伝の原本で「邪馬壹国」と表記がある。青く囲ったところ。


日本古代史の主流が、魏志倭人伝に明確に書かかれている【邪馬壹国】を
なぜ「邪馬臺国(邪馬台国)」と変えたのか?


1339年南北朝・足利将軍の時代 北畠親房「神皇正統記」に【邪馬臺国(邪馬台国)】と書かれた。

「神皇正統記」ゆえにヤマト政権・天皇の威信を確実にするための史料として、
中国・魏でも「ヤマト」を認めていた覗えるように、魏志倭人伝を利用したと思われる。


それは、江戸時代の儒教学者・松下見林「異称 日本伝」から本居宣長によって
広く浸透していった。


今後、高配な学者によって堂々と訂正をしてもらいたいと願う。

神話を盛り込まれた古事記や日本書紀さらには各地の風土記は、編纂された時期が
ヤマト政権が確立された後、712年以降である。

「歴史は為政者に利用される」の格言通りであるが、古事記や日本書紀等を否定するものでない。

過去の多くの史料を読み比べ、整理して、出土品等と合わせて、少しでも日本古代が
判明していく事を願いたい。

「邪馬壹国」「卑弥呼」に関する50名近くの著者の史料を読み続けていますが、それぞれの主張が面白い。

【注】「邪馬臺国(邪馬台国)」の表記は「後漢書」や他の中国正史書にもみられるが
現在では最も書かれたのが古いのが「魏志倭人伝」になっている。
混乱しやすいのは、後漢の時代は三国時代・魏の時代より昔ですが、「後漢書」が書かかれたのは新しく
「魏志倭人伝」の編纂後100年過ぎて書かれている事です。他の中国正史も同様。

桜・サクラ咲く

2016-04-01 12:59:56 | 日記
今年の桜の開花に合わせたように、航空自衛隊・入間基地の観桜会がありました。


  
今年は桜並木が解放され、ベンチ(飲食禁止)もあって、ゆっくりと桜を鑑賞できた。


所沢・航空公園の桜は、満開の木と開花したばかりとまだら。

4月2日、3日のお祭りの準備が進んでいた。