福岡県立博物館に展示の「志賀島の金印」
江戸時代、農民が畑を耕していて発見された。
建武中元二年(西暦57年)倭国王が帥升が生口160人朝貢し、後漢の光武帝から授けられたとされる。
刻印の意味に議論がある処です。
刻印は【漢委奴国王】で、改行は【漢】【委奴】【国王】になっている。
①「委」は「倭」の間違いの説。倭国
②「委奴」は「伊都」の国を示す説。伊都国は一支である。
③「奴国」示す意見。多くの研究者が賛同しているが、印の意味で議論が続いている。
二つの国王が刻まれた印はあり得ないし、奴国王が刻まれ漢国王と刻まれないのはあり得ない。
【漢委奴国王】は【漢】が【奴国】を【委ねた】との意見が強いが、
漢文として考えると、【漢】に【奴国王】が【服した】の意味となる。
【委】の漢意をみると「芯がなく、くねくねする」
「委蛇」は蛇がくねくねする様子。
【任委】漢文と【委任】日本語の熟語がある。
意味として
「委任○」は「○に委ねる任務」
「任委○」は「○が委ねた任務」、金印の刻印はこれと同じで
「漢委奴国王」で「奴国王は漢に委ねた」となる。
後漢書や魏志倭人伝によると57年以後の倭国歴史との関係で得心できる。
倭国は、環濠集落ごとのくにグニの合衆国・共和国のようなものでその一つが奴国。
奴国は半島・弁辰の鉄輸入権益を得る為、後漢に朝貢して服従した。
その後、後漢が滅びると、奴国は後ろ盾を失い、鉄の権益で倭国は大乱になった。
経済の戦いは、宗教的に終息させる手段として、鬼道(道教)の卑弥呼が共立王となった。
卑弥呼がどのように道教を習得したか?今の「天皇」の名称は道教で最高位である。
それが、邪馬台国/邪馬壱国と卑弥呼の推理になる。
江戸時代、農民が畑を耕していて発見された。
建武中元二年(西暦57年)倭国王が帥升が生口160人朝貢し、後漢の光武帝から授けられたとされる。
刻印の意味に議論がある処です。
刻印は【漢委奴国王】で、改行は【漢】【委奴】【国王】になっている。
①「委」は「倭」の間違いの説。倭国
②「委奴」は「伊都」の国を示す説。伊都国は一支である。
③「奴国」示す意見。多くの研究者が賛同しているが、印の意味で議論が続いている。
二つの国王が刻まれた印はあり得ないし、奴国王が刻まれ漢国王と刻まれないのはあり得ない。
【漢委奴国王】は【漢】が【奴国】を【委ねた】との意見が強いが、
漢文として考えると、【漢】に【奴国王】が【服した】の意味となる。
【委】の漢意をみると「芯がなく、くねくねする」
「委蛇」は蛇がくねくねする様子。
【任委】漢文と【委任】日本語の熟語がある。
意味として
「委任○」は「○に委ねる任務」
「任委○」は「○が委ねた任務」、金印の刻印はこれと同じで
「漢委奴国王」で「奴国王は漢に委ねた」となる。
後漢書や魏志倭人伝によると57年以後の倭国歴史との関係で得心できる。
倭国は、環濠集落ごとのくにグニの合衆国・共和国のようなものでその一つが奴国。
奴国は半島・弁辰の鉄輸入権益を得る為、後漢に朝貢して服従した。
その後、後漢が滅びると、奴国は後ろ盾を失い、鉄の権益で倭国は大乱になった。
経済の戦いは、宗教的に終息させる手段として、鬼道(道教)の卑弥呼が共立王となった。
卑弥呼がどのように道教を習得したか?今の「天皇」の名称は道教で最高位である。
それが、邪馬台国/邪馬壱国と卑弥呼の推理になる。
後漢の時代は西暦25年~220年、その後、魏・蜀・呉の三国時代(220~265年)に入った。
『後漢書』は范曄(398~445年)が編纂したが、『魏志倭人伝』は280年に編纂された。その時期は范曄が生まれる前。
『後漢書』全115巻 撰者・范曄 5世紀 「倭伝」の文字数740(大文字換算)
「倭伝」の出所:『前漢書』「地理志」撰者・班固(後漢)および『論衝』撰者・王充(後漢)および『魏志倭人伝』
転記による国名や時代の実態齟齬が多く、写筆の人が複数で筆跡も違う(除仁、李昇、朱梓など)
「倭伝」は後漢書・全115巻の内、75巻目で写筆の時期が遅かったと思われる。
邪馬台国の記述:邪馬臺国
『後漢書』除仁の筆
『後漢書』李昇の筆
『三国志』全30巻 撰者・陳寿 3世紀 「倭人伝」の文字数1825
「魏志倭人伝」の出所:正始元年(240年)魏が倭国訪問および魚拳(陳寿と同年代)の『魏略』
魏志倭人伝は一人の人物の筆跡と思われる
邪馬台国の記述:邪馬壹国
『魏志倭人伝』
『(前)漢書』「地理志」の「燕地・倭人条」の「倭」は、本文:20文字、釈文:85文字程度
邪馬臺国 邪馬壹国 どちらが???
漢字が日本に伝わったのは早いが、日本人が漢字として認識し始めたのが2~3世紀頃
それまで漢字は伝わっていたが、文様として見ていたようです。
日本人の大陸や半島との伝達は、口語が主であった。
紙が日本伝わったのが(はっきりしないが)5~6世紀
これらの事から、日本人の語り口語を中国人が漢字に置換したと理解できる。
『後漢書』で「邪馬臺国」の記述に続いて
注釈的な小文字で「案今名邪摩惟音之訛也」と記述されている。
このことは「この名はヤマイの音訛り也」と理解できる。
とすれば、『後漢書』も『魏志倭人伝』と同じ「邪馬壹国」となる。
『後漢書』は范曄(398~445年)が編纂したが、『魏志倭人伝』は280年に編纂された。その時期は范曄が生まれる前。
『後漢書』全115巻 撰者・范曄 5世紀 「倭伝」の文字数740(大文字換算)
「倭伝」の出所:『前漢書』「地理志」撰者・班固(後漢)および『論衝』撰者・王充(後漢)および『魏志倭人伝』
転記による国名や時代の実態齟齬が多く、写筆の人が複数で筆跡も違う(除仁、李昇、朱梓など)
「倭伝」は後漢書・全115巻の内、75巻目で写筆の時期が遅かったと思われる。
邪馬台国の記述:邪馬臺国
『後漢書』除仁の筆
『後漢書』李昇の筆
『三国志』全30巻 撰者・陳寿 3世紀 「倭人伝」の文字数1825
「魏志倭人伝」の出所:正始元年(240年)魏が倭国訪問および魚拳(陳寿と同年代)の『魏略』
魏志倭人伝は一人の人物の筆跡と思われる
邪馬台国の記述:邪馬壹国
『魏志倭人伝』
『(前)漢書』「地理志」の「燕地・倭人条」の「倭」は、本文:20文字、釈文:85文字程度
邪馬臺国 邪馬壹国 どちらが???
漢字が日本に伝わったのは早いが、日本人が漢字として認識し始めたのが2~3世紀頃
それまで漢字は伝わっていたが、文様として見ていたようです。
日本人の大陸や半島との伝達は、口語が主であった。
紙が日本伝わったのが(はっきりしないが)5~6世紀
これらの事から、日本人の語り口語を中国人が漢字に置換したと理解できる。
『後漢書』で「邪馬臺国」の記述に続いて
注釈的な小文字で「案今名邪摩惟音之訛也」と記述されている。
このことは「この名はヤマイの音訛り也」と理解できる。
とすれば、『後漢書』も『魏志倭人伝』と同じ「邪馬壹国」となる。
魏志倭人伝にまつわる資料を読んでいくと、その範囲は広がる。
陳寿が編纂したのが西暦280年頃と言われていますが、魏志倭人伝の背景を探ると
紀元前1600年、中国・殷王朝の史料もみたくなった。
倭人と中国大陸の交流はその頃もあったようだ。
縄文時代の後期
魏志倭人伝では邪馬台国でなく【邪馬壹国】(やまいちこく)が正しい。
倭人伝の原本で「邪馬壹国」と表記がある。青く囲ったところ。
日本古代史の主流が、魏志倭人伝に明確に書かかれている【邪馬壹国】を
なぜ「邪馬臺国(邪馬台国)」と変えたのか?
1339年南北朝・足利将軍の時代 北畠親房「神皇正統記」に【邪馬臺国(邪馬台国)】と書かれた。
「神皇正統記」ゆえにヤマト政権・天皇の威信を確実にするための史料として、
中国・魏でも「ヤマト」を認めていた覗えるように、魏志倭人伝を利用したと思われる。
それは、江戸時代の儒教学者・松下見林「異称 日本伝」から本居宣長によって
広く浸透していった。
今後、高配な学者によって堂々と訂正をしてもらいたいと願う。
神話を盛り込まれた古事記や日本書紀さらには各地の風土記は、編纂された時期が
ヤマト政権が確立された後、712年以降である。
「歴史は為政者に利用される」の格言通りであるが、古事記や日本書紀等を否定するものでない。
過去の多くの史料を読み比べ、整理して、出土品等と合わせて、少しでも日本古代が
判明していく事を願いたい。
「邪馬壹国」「卑弥呼」に関する50名近くの著者の史料を読み続けていますが、それぞれの主張が面白い。
【注】「邪馬臺国(邪馬台国)」の表記は「後漢書」や他の中国正史書にもみられるが
現在では最も書かれたのが古いのが「魏志倭人伝」になっている。
混乱しやすいのは、後漢の時代は三国時代・魏の時代より昔ですが、「後漢書」が書かかれたのは新しく
「魏志倭人伝」の編纂後100年過ぎて書かれている事です。他の中国正史も同様。
陳寿が編纂したのが西暦280年頃と言われていますが、魏志倭人伝の背景を探ると
紀元前1600年、中国・殷王朝の史料もみたくなった。
倭人と中国大陸の交流はその頃もあったようだ。
縄文時代の後期
魏志倭人伝では邪馬台国でなく【邪馬壹国】(やまいちこく)が正しい。
倭人伝の原本で「邪馬壹国」と表記がある。青く囲ったところ。
日本古代史の主流が、魏志倭人伝に明確に書かかれている【邪馬壹国】を
なぜ「邪馬臺国(邪馬台国)」と変えたのか?
1339年南北朝・足利将軍の時代 北畠親房「神皇正統記」に【邪馬臺国(邪馬台国)】と書かれた。
「神皇正統記」ゆえにヤマト政権・天皇の威信を確実にするための史料として、
中国・魏でも「ヤマト」を認めていた覗えるように、魏志倭人伝を利用したと思われる。
それは、江戸時代の儒教学者・松下見林「異称 日本伝」から本居宣長によって
広く浸透していった。
今後、高配な学者によって堂々と訂正をしてもらいたいと願う。
神話を盛り込まれた古事記や日本書紀さらには各地の風土記は、編纂された時期が
ヤマト政権が確立された後、712年以降である。
「歴史は為政者に利用される」の格言通りであるが、古事記や日本書紀等を否定するものでない。
過去の多くの史料を読み比べ、整理して、出土品等と合わせて、少しでも日本古代が
判明していく事を願いたい。
「邪馬壹国」「卑弥呼」に関する50名近くの著者の史料を読み続けていますが、それぞれの主張が面白い。
【注】「邪馬臺国(邪馬台国)」の表記は「後漢書」や他の中国正史書にもみられるが
現在では最も書かれたのが古いのが「魏志倭人伝」になっている。
混乱しやすいのは、後漢の時代は三国時代・魏の時代より昔ですが、「後漢書」が書かかれたのは新しく
「魏志倭人伝」の編纂後100年過ぎて書かれている事です。他の中国正史も同様。