備忘録

忘れないための頭の中のメモ帳

心清浄(しんしょうじょう)

2024-02-24 00:00:00 | 
  • 心清浄—心を清浄にするというような観法がいちばん下にあるのです。

 

  • 澄み切りましょう。きれいになりましょう。青空みたいになりましょう」というのがいちばん初歩のレベルで、その次くらいに五停心観が来るのです。

 

  • その上に、「四禅定」などのいろいろな禅定がきます。

 

 

『沈黙の仏陀』 第4章 五停心観


数息観(すそくかん)

2024-02-24 00:00:00 | 
  • これは「散乱心(さんらんしん)」を抑える観法です。

 

  • 「散心(さんしん)」ともいいますが、いろいろなことに心が散ってしょうがない、雑念ばかりが浮かんで集中できない、一つのことに打ち込めないということがあります。

 

  • こうした散乱心、散心を収める方法が、この数息観なのです。心がよく乱れる人の修する観法です。

 

  • 入る息(吸う息)、それから出る息(吐く息)を、「一、二、三、四・・・」と数えていくわけです。吸う息、吐く息を順番に数えながら、深呼吸をずっと続けていくのです。

 

  • こうしているうちに、だんだん心が穏やかになっていきます。これは、呼吸法の一種ですが、このように数を数えることに専念して心を鎮めていく方法を、「数息観」といいます。

 

  • 数に心を集中して、ほかのことに念いを向けないようにするのです。そうすれば雑念を断つことができます

 

『沈黙の仏陀』 第4章 五停心観


界分別観(かいふんべつかん)

2024-02-24 00:00:00 | 
  • これは「我見」を抑える修法です。

 

  • つまり、自我が強く、驕り高ぶる人が修すべき観法なのです。

 

  • 「自分が、自分が」という自我にとらわれてしかたがないのだけれども、自分というのは十八種類の構成要素でできているのです。

 

  • 分解していくと、「眼・耳・鼻・舌・身・意」という六根、感覚器官があり、これによって自分は世界と接触しているのです。その六つの器官で接し、世界をつかんでいるのです。

 

  • そして、その対象は何かといえば、「色・声・香・味・触・法」です。「色界・声界・香界・味界・触界・法界」、これが感覚器官の対象であり、これで「十二処」です。

 

  • そして、それぞれの対象と、それを見る、あるいは感じる器官との間にでてきてくる認識の世界が、「眼識界・耳識界・鼻識界・舌識界・身識界・意識界」という六つの界(六界)です。

 

  • この「六根・十二処・十八界」に分解していくと、「この世で『私が、私が』と思っているけれども、この感覚器官が、この世にある様々なものに対して様々な反応をし、そして出た判断結果が、自分をつくっている世界なのだ。『自分が、自分が』と思っているけれども、自分も他人も世界も、すべて十八界のなかに納まっているのだ。そういう要素に分解していくと、この世的な存在としての自分というものは、いかに虚しいものであるか」ということに気がつくわけです。

 

  • こうして、この世的な様々なことにこだわっている自分、あるいは自我というものにこだわっている自分を抑えていくことができます。

 

  • 十八の界を分別する、分けて考える見方を、「界分別観」といいます。

 

  • こうして無常を感じ取っていくことによって、自我の高まりを抑えていくことができるのです。

 

 

『沈黙の仏陀』 第4章 五停心観


因縁観(いんねんかん)

2024-02-24 00:00:00 | 
  • 「貪・瞋・癡」の「癡」を対象とします。現代的には、愚痴や不平不満の代表のように言われていますが、もとをただせば、愚かであるから不平不満が出てくるわけです。この愚かさを断つための観法が「因縁観」と言われるものなのです。

 

  • 愚痴や不平不満が出る人というのは、結局のところ、因果の法則に無知だからなのです。出ている結果に我慢がならないわけです。不満だから、いろいろなことで愚痴が出るわけです。

 

  • 今そうなっているのは、それだけの原因があったからです。その原因を探ろうとしなさい。そうすれば不平や不満が止まります。「これが原因で、自分はこうなっているのだな」ということがわかります。

 

  • 「癡」の部分は、因果の理法をきちんと突き詰めていく、原因があって結果が今でてきているのだということを知っていくと、実は収まってくるものなのです。

 

  • 原因行為をきちんと押さえて、その結果が出ているのだと知ることを、「因縁観」といいます。

 

  • 愚痴や不平不満を抑える役割があり、縁起の理を対象とした観法です。

 

『沈黙の仏陀』 第4章 五停心観


慈悲観(じひかん)

2024-02-24 00:00:00 | 
  • 「瞋」―怒りを抑え、収めるための方法です。

 

  • ある人に対して、カーッと怒り、もう腹が立ってしょうがないということがあります。カーッと怒って、そしてさらに増幅させ、お互いに血みどろの争いになっていくわけですが、そのようなときにこの慈悲観を行うのです。

 

  • 好きな人、嫌いな人、どちらでもない人、そうした人たちに対して平等に接しなければいけないという、平等視をするのです。

 

  • みんな同じく仏の子なのだ。自分にとっては、いろいろと好き嫌いがあったりするけれども、みんな仏がよしと思ってつくられた人たちなのだ。そういう魂なのだ」と。まずはいったんゼロに戻して、平等視をしようとするわけです。

 

  • 差別することなく、あらゆる人々に、「抜苦与楽(ばっくよらく)」すなわち苦を抜いて楽を与えてあげようと観じる心が大切です。このように思おうとするだけでも、マイナスのものからプラスのものに切り替わっていきます。そうした中和作用が出て来て、心が穏やかになってくるわけです。

 

『沈黙の仏陀』 第4章 五停心観


不浄観(ふじょうかん)

2024-02-24 00:00:00 | 
  • 不浄観とは、「清らかでない、汚いものを観る」ということです。

 

  • その対象は、「貪」なのです。「心の三毒(貪・瞋・癡)」の貪です。要するに、貪りの心が多い人が修する修法、あるいは心に貪りが満ちているときに修すべき修法なのです。

 

  • その貪りのなかでも、不浄観がよく使われる場面というのは、いわゆる性欲、情欲です。

 

  • 今、自分の心は燃え盛り、煩悩でいっぱいになっているけれども、自分を燃え盛らせる煩悩の対象となっている、その若くて美しい女性、あるいは女性からみれば素敵な男性も、やがては腐乱死体のように腐り、そして白骨になっていくのだ―。どくろになった姿を心に描くことを「白骨観(はっこつかん)」ともいいますが、このように死んでいく姿、さらに死体の姿を思い浮かべる観法が不浄観です。

 

  • この不浄観を行うと、燃え盛ている炎が、たちまちにして鎮まってきます。

 

  • 執着を断つための方法として、白骨観だけではなくて、「その皮膚を一枚めくったあとの姿を想像してみろ。『女性は美しい』と言うけれども、これは皮膚の皮一枚のことではないか。この皮一枚を取った姿を想像してみれば、とてもではないけれども、美しいとは言えないだろう」ということで、そうした姿を想像するのです。

 

  • こうした方法で、死体の姿、白骨の姿を思い浮かべる、あるいは皮膚や皮を取った姿を想像する、あるいは内臓の中を想像するわけです。これを「不浄観」といいます。

 

『沈黙の仏陀』 第4章 五停心観


「禅」「定」と「止」「観」

2024-02-24 00:00:00 | 

《禅》 精神と身体の調和を目指す作法

《定》 心を平静な状態にし、その対象の本質を見ること

 

《止》 心の波立ちを鎮める

《観》 集中して心の目で観ること

    ある対象に対して念いをぐっと向けていくこと

 

※「禅」とは、この「止」と「観」のバランスがよくとれた状態のこと。

 

  • いろいろな観法がありますが、「止」のほうに偏っているものや、「観」の方に偏っているもの、あるいは初心者向けから上級者向けへと内容も深まっていくわけです。

 

  • 初心者向けだと「止」のほうが強いのですが、上級者向けになってくると、だんだん「観」のほうが強くなります

 

  • 自分の心の内を見つめるのにも段階があって、深くなればなるほど、いろいろなところまで踏み込んでいけるようになっていきますが、初心者は、まずは雑念を払って、心を鎮めるところから始めるのが筋なのです。

 

『沈黙の仏陀』 第4章 五停心観

 


病気を治すためには反省も大事

2024-02-23 00:00:00 | 
  • 病気をしている人には、心や行いにおいて、それなりの罪があります

 

  • 今、病気になって苦しんでいるのであれば、肉体の不摂生や、家族の問題、事業の問題などで、何らかの罪があるのです。

 

  • したがって、単に「治してください」と願うだけではなくて、やはり反省もしなければいけません。この反省の気持ちが、「我らの罪をお赦しください」という言葉に表されているわけです。

 

  • ここで「我ら」と言っているのは、病気をしていても自分だけの原因ではないことがあるからです。

 

  • 自分が病気の状態になっているときには、家族や会社にも問題があるでしょう。また、広い意味では、日本人、あるいは地球人としての罪もあると思います。

 

  • 個人だけの問題ではなく、人類として、あるいは国民として罪を犯しているために、いろいろな悪い病気が流行っている場合もあります。

 

  • その意味において、自分の病気を治す場合にも、「我らの罪をお赦しください」と言っているのです。

 

 

『「病気平癒祈願」講義』p23


悪霊撃退の言葉

2024-02-23 00:00:00 | 
  • 病気で何体かの悪霊に憑かれているような人に対して、「全智にして 全能の主よ ラ・ムーよ トスよ・・・」と読み始めると、憑いている悪霊たちは、「こんなに大勢で攻めてくるのか」と思い、ものすごく怖くなって退散します。

 

  • このように固有名詞を出しているのは、エル・カンターレの魂の兄弟がずらりと勢ぞろいしえ、光がザーッと一気に下りてくるところをイメージしているのです。霊界は念いのとおりの世界なので、これを言葉で言うだけで、悪霊たちにとってみれば、強力な戦士が攻めてくる感じがします。

 

  • このように、ここの部分では、エル・カンターレの全エネルギー、全力を結集しようとしているのです。

 

 

『「病気平癒祈願」講義』p22


破壊的想念が病気をつくる

2024-02-23 00:00:00 | 
  • もし、体の機能のなかで、悪想念によって病巣をつくったり、機能として異物をつくったりする部分があるとしたら、そこは狂っているわけです。

 

  • 自分の細胞や内臓の意識が、本来の意図とは反対の破壊的な方向に向いているので、正しい方向に合わせなければいけません

 

  • 内臓の意識などが、破壊的な方向に向くには理由があって、実際は、人間の脳、あるは心のほうから、破壊的想念が発射されていることが多いのです。もとのほうから破壊的想念が発射されているため、末端のほうは、その指示を受け、内臓を悪くしたり、体を悪くしたりしているのです。

 

  • したがって、もとのほうから正していかなければなりません。

 

  • 体の各部分が間違った仕事をしているわけですから、自分の体に対して、「あなたがた、体の諸機能、諸器官、諸意識も、主への信仰の下に正しく帰依しなさい。主の御光を体のなかに通しなさい。主の御光の方向で仕事をしなさい」と言うことです。

 

  • そうすれば、あらゆる病巣は消え去るしかないのです。

 

 

『「病気平癒祈願」講義』p17


言葉と念いで悪霊を退散させる

2024-02-23 00:00:00 | 
  • 悪霊が原因で病気になることも多いので、「あらゆる悪霊は主を畏れ」という言葉を明言してしまうことです。

 

  • 霊界は念いの世界であるため、悪霊に憑かれていても、「あらゆる悪霊は主を畏れ」ということを強く念うと、悪霊は、主の名前が出てきただけで、非常にひるむのです。

 

  • そこで、病気の人が、「私は主と一体なのだ」と念うと、その人に憑いている悪霊はビクッと来ます。

 

  • 霊界は心の念いが即通じる世界なので、例えば地獄のサタンのことを念ったり、悪魔のことを書いた文字を読んだり、絵などで悪魔の姿を見たりしているだけでも、スッと通じて、悪魔がすぐ寄ってくるのです。

 

  • しかし、逆もまた真です。主の御名を呼び、「主と一体である」ということを念じ、「どのような悪霊も主を畏れているのだ」と念っていると、その言葉と念いによって、悪魔は退散し始めます。

 

 

『「病気平癒祈願」講義』p15


病気と霊的作用

2024-02-23 00:00:00 | 
  • 病気は、三次元的な肉体の不調が現れているわけですが、霊的な作用も、かなりの程度、働いていると言ってよいと思います。

 

  • なぜかというと、地上で病気になったり、入院して寝たきりの状態になっている人の守護霊を呼んでみると、肉体のなかに入っている霊体を抜き出しているわけでは決してないのに、地上の人とは別の魂である守護霊の方も非常に弱っているのです。

 

  • 地上に肉体を持っている人が重体のときは、守護霊のほうも、病気かと思うほど弱っています。それほど、地上の人間と守護霊は通じているのです。

 

  • そのため、この世の人間が、光のエネルギーが弱って‟ブラックホール化”していると、それに引っ張られて、魂の兄弟のほうも、そうとうエネルギーを取られています。

 

  • また、病気のときは、どうしても心身ともに不調和になるので、悪霊が非常に寄ってきやすくなります。そして、悪霊が寄ってくると、「さらに病気が悪化する」ということが多いのです。

 

 

「『病気平癒祈願』講義」p10


体と心の関係

2024-02-23 00:00:00 | 

白隠 体の健康というものは、やはり心の反映なのです。

 

  • つまり、心がバランスを失っておれば、いろいろな病気になるということです。

 

  • ですから、特定の器官なり部分なりが悪くなるのは、それなりの原因があるということです。もちろん、いろいろな原因があるけれども、その原因が集中してきているということです。そうすると、ある時点に来たときに、堰を切ったように悪くなってくる。つまり、そういう意味で、心は体にたいへん密接なかかわりがあるわけです。

 

  • 心と体は一致しているのです。

 

  • ですから、体が悪いときには心も悪いのです。心のどこが悪いのかをよく見極めながら、治療に当たるということですね。これが大事です。

 

  • 私は、自分の病気を禅で治していきましたが、結局は、病気は禅で治るものではないのです。ただ、禅というものを通して、心を調和させ、「なぜ、体のそういう部位が悪いのか」、その理由をよく追究し、そして、心を光明面に向けていったときに、そういう病が消えていったということです。

 

  • たいていの病気は、心を入れ替えれば治っていくのです。それだけの自然治癒能力が人間にはあるのです。

 

 

『大川隆法霊言全集』 第22巻 白隠の霊言 P128


人間には自然治癒能力が与えられている

2024-02-23 00:00:00 | 

白隠 神仏は人間に自然治癒能力を与えておられます。

 

  • それは外傷を見れは分かります。指を擦りむいても、皮ができてくる。頭の毛が抜けても、また生えてくる。そういうふうになっていますね。歯だって、生え替わることがあります。

 

  • そうであるならば、内臓の腑、こうしたものにも自然治癒能力があるのは当然なのです。ないわけはないのです。

 

  • ですが、どうも、現代においては、恐怖心による治癒がはやっているようです。

 

  • 病気は、人間、人類のなかにある恐怖心によるものです。恐怖心が具現化しているのが病気なのです。恐怖心なのです。

 

  • 心に思ったことは、肉体に物質化してきます。「肉体は心の影」と昔から申しますが、心に思ったことは外形に出てきます。

 

 

『大川隆法霊言全集』 第22巻 白隠の霊言