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都内散歩 散歩と写真 

散歩で訪れた公園の花、社寺、史跡の写真と記録。
時には庭の花の写真、時にはテーマパークの写真。

京都と西田幾太郎〈3〉 『新潮45』 (2014年第6月号)佐伯啓思著

2014-10-02 19:31:21 | 抜粋
『新潮45』 (2014年第6月号)佐伯啓思著.「反・幸福論」第41回 ”京都と西田幾太郎 ”p.322-330
副題 : 西田のような哲学は京都からしか生まれなかったことは間違いない。決して東京では生まれない。

"小見出し” "京都の特質とは" から引用
西田にとっては、学問的研究はほとんど関心の対象ではなく、自らの日常の経験から発して、最後にまたそこへ戻ってくるための手立てを哲学に求めたのです。「日常性の世界というものが、最も直接な具休的な世界である」という西田にとっては、哲学とは、この日常世界の意義をもっとも深く表してくれるものでした。だから「哲学は最も深い常識でなければならない」というのです(「『理想』編集者への手紙」)。
私が西田哲学に関心をもち、西田幾太郎という人物に共鳴するのは、知識というものに対するこのような至極まっとうな態度が根底にあるからなのです。哲学を特権化するわけでもなく、学問研究にはさして関心もなく、しかし、日常の経験を突き詰めてその究極にある普遍的なものを取り出したいという姿勢に共感するのです。知識は、われわれの具体的な日常の生から離れることはできないのです。
とすれば、われわれ日本に暮らす者は、日本という文脈を離れて知識にかかわることはできないでしょう。西洋の知識の輸入商人になり、それを専売特許にして我がもの顔で論じ、何々の専門家と称し、海外からの著名な学者を招くことに精をだし、それで日本の学術水準が上がっただのと思ってしまう今日の風潮とはまったく異なった精神がそこにはあります。(P.328-329)

西田のような哲学は京都からしか生まれなかったことは間違いありません。決して東京では生まれなかったでしょう。
もともと、京都大学は、近代日本の国家建設の宿命を背負って生まれた東京大学とはまったく異なった意義をもっていました。それは東大に次ぐ大学なのではなく、東大とは違った大学だったのです。東大は常に西洋の最先端の学問や技術の導入と日本の近代化という使命と不可分なのに対して、京大は、特に文系の場合、内藤湖南に見られるように、東洋を向き、もっといえば、西洋と東洋を等分に見るというポジシヨンを与えられていたのです。そこへもってきて、京都という土地柄、日本の伝統的なもの、歴史的な為のへの関心が底に流れていたことは疑い得ないでしょう。
それは、最新情報を追うのに多忙で、競争と刺激によって成果を出し続けることを求められる東京とはまったく異なった風土にあったのです。近代がもたらす最先端の情報や目先の問題から距離を置くことこそが京都の特質だったはずです。それを放棄すれば、京都は京都でなくなります。京大が第二の東大を目指した時点ですでに京大は崩壊します。東大は常に西洋的なものの最先端を追い、グローバルな世界を見ているし、またそうでなければ困るのです。だからこそ京大は、それから距離をとらなければならないのです。業績主義、成果主義、商業主義はもともと京大には合わないのです。(P.329)

『新潮45』 (2014年第6月号)佐伯啓思著.「反・幸福論」第41回 ”京都と西田幾太郎”  副題(西田のような哲学は京都からしか生まれなかったことは間違いない。決して東京では生まれない。p.328-329)から抜粋 

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