愉しい触れ合いを目指してゆとりの有る人生を歩みましょう

平凡な日常生活にまつわる拘り情報、写真、並びに体験談等を交えて皆さんとの交流を深めて参りたいと思います。

認知症と宣言された妻の愛を求めて {其の二} ~ 日本30日の旅

2013-12-29 01:38:13 | 闘病・介護



{継続 12月27日}

7月18日に最寄りのデパートに買い物に出かけ駐車場から其のデパートに 入る手前の路上で家内を載せていた車椅子が地面の窪みに気付かず、車椅子と共に後ろ向けに横転して左の後頭部を地面に打ちつけたのでした。 瘤は出来でいたけど外傷は無く大丈夫と思って居たけど、帰る自動車の中で大量の嘔吐を繰り返していたので午後はずっとベッドで休ませていましたが嘔吐は繰り返し続けていました。早速翌朝医者に連絡をすると直ぐに病院に入院の手続きをするように指示されました。
CT Scanの結果では可なりの脳内出血を起こして居たので入院して様子を伺う事になり最 悪の場合には手術も必要となると言われて覚悟をして居ました。毎日スキャンで出血の状態を確認した結果では出血は完全に止まっている事が判明しました。安全確保のため26日まで監視状態を続けやっと退院出来ました。 

家内が未だ元気な内に日本の身内に逢わせて置きたい思いで日本訪問を決定し秋の季節を選んで10月から1ヶ月の日程に取り組みました。4年越しのブログで親しくなったぷうさんやひろし爺さん、並びにゆらさん達の暖かいご協力を得て部分的区域の観光案内をして頂く事になりました。 

先ずは家内の妹、弟、甥達が住む東京から始まって、名古屋、京都、琵琶湖、広島、宮島、岩国、更に九州の別府と長崎まで足を伸ばして参りました。 岩国には有名な錦帯橋や岩国城が有り、私の姉夫婦が長年住んでいる場所です。 東京ではゆらさんに築地の魚河岸市場を初めて視察させて頂き新鮮な大盛りの握り寿司でお腹を満たした後は隅田川の水上観光ボートで浅草まで約40分の水上旅行を愉しみました。 浅草まで来ますと其処から聳え立つ東京スカイツリーを臨む事が出来ました。
浅草では数多くの観光客と混じって修学旅行で来ている学生達で大賑わいの有様でした。
又他の日には私の姪夫婦の家族の案内で都内観光バスで見物させて貰いました。 

終戦直後から中学以来親しくなった親友のosamuさんとも元気な姿で再会する事が出来て凄く嬉しかったです。 彼との消息は途中で数回途切れましたが、縁が有ってやっと探し当てた古い親友です。
京都と琵琶湖方面では私の二番目のosamuさんと同期の親友の計らいで豪華なホテルに招待され彼とは何と68年振りに初めての再会で涙が出る程懐かしく嬉しかったです。 その後は先ず姉夫婦の住む岩国を訪れ、其処では有名な錦帯橋や岩国城をぷうさんとひろし爺さん達にご案内して頂きました。 岩国には更にもう一人私の三人目の同期の親友にも同じく68年ぶりの再会を果たしました。
更にその翌日には広島市内の原爆ドームや資料館を見学、ぷうさんには私の家内を乗せた車椅子を押しながらのご親切なご案内には本当に恐縮いたしました。 ひろし爺さんには寧ろ写真や動画を専門のカメラで撮影して頂きました。 因みに私が12歳の中学1年生の時に学徒動員の一員として原爆投下の前日までは市内の中心地で勤労奉仕に携わっていたのですが、原爆当日は2学年の上級生と交代させられたので運良く被爆から免れる事が出来たのでした。哀しい想い出を思い出しました。 昼食には近くに有る広島名物の「お好み焼き」を「お好み焼き村」と呼ばれる専門店で皆で楽しく頂きましたが、流石に美味しかったです。 

昼食後からは今では世界遺産となった宮島(厳島)に渡って参拝して参りました。 宮島の近くで幼少の頃から育った場所なので此処も68年振りに訪れたので大変懐かしかったです。 宮島は美しいもみじの紅葉でも有名なのですが残念ながら未だ伺うことは出来ませんでした。 此処でも大勢の外国人の観光客や修学旅行の生徒達で大賑わいでした。 帰りがけには私が幼少の頃家族ぐるみで随分お世話になった親戚の家が現在も頑丈で昔の侭の懐かしい建物を見届けて胸が痛くなる程、懐かしく思いました。 私は原爆投下の日にもこの家の二階の部屋から原爆のきのこ曇を眺めていたのでした。

今も振り返って思い出しますとぷうさんやひろし爺さんご両人には実にご親切な「おもてなし」を授かり大変ご苦労様でした。 一生忘れられない素敵な想い出を沢山作らせて頂きました。 お陰で家内も記憶に残る想い出になった事と思います。 家内本人の口から直にお礼の言葉を掛ける事は出来ませんが大変感謝しております。  

最後の週には別府と長崎まで新幹線で乗り継いで参りましたが、別府では二日間雨模様の天気で、他の観光客も含めてホテルで足止めとなりましたが、別府を去る時、雨の中をタクシーで市内の案内をして頂き湯煙が立ち上る別府ならではの独特な風景をカメラに捉えただけでした。 其処から長崎には初めての場所で坂道の多い丘のある街でしたが、小高い丘の頂上にそびえ立つ様な大きいホテルで矢太楼(ヤタロウ)と言う名の知れたホテルに二泊する事になりました。 其処は特に名指しして見付けたホテルでは有りませんでしたが、綺麗で気持ちの良い大きいホテルでしたので安心して休めました。 最初に予約した部屋は一寸狭過ぎて車椅子も入れない位でしたので翌日広い部屋に移動させて頂いたら、別館の建物に空いていた部屋に案内されましたが、それが何と昭和初期に天皇がお泊まりになられたと言ういわれの有る立派で広くて眺めの良い部屋に案内され然も割安の価格でゆっくり泊まる事が出来ました。其処から眺める夜景は最高でした。 長崎では晴天に恵まれていたのでタクシーを雇って市内や原爆資料館などに案内して頂きました。 広島の原爆状態と比較して可なり違った内容の規模の状況でしたが、良い参考となりました。 残りの数日を残して再び東京に戻り、最後の日には又ゆらさんのご案内で横浜までドライブして頂き、港が見える丘の綺麗な薔薇公園やその近辺のチャイナタウンを散策、昼食には勿論中華料理をご馳走になり新たな想い出が出来ました。 
ゆらさんと優しい旦那さんに感謝感激でした。 旦那さんにも家内を乗せた車椅子を押して公園内を散策して頂き、お疲れ様で有難うございました。

愈々最終日の10月31日には成田空港からホノルルの我が家に無事戻りました。 丁度8時間掛かりハワイ時間では同日の31日の朝8時過ぎに着陸しました。 何と言っても我が家程ゆっくり寛げられる場所は他には有りませんね。 皆さんには本当に多大なお世話をお掛けして一生の素晴らしい想い出の旅を遂げる事が出来ました事に深くお礼を申し上げます。

11月に入ると毎日我が家でゆっくり寝そべって長旅の疲れを癒しました。 家内も人に気兼ねをせずに充分に休められる我が家に大喜びで、もう当分の間旅行には行きたくないと申しております。
旅に出掛ける前日まではリハビリで鍛えた両足で観光を楽しめると軽く思っていましたが、 30日間の殆どは色んな状況に依って車椅子に頼らざるを得ない事が多く、歩行をするのは部屋に居る時だけの短時間でした。 身体の疲れが解消された頃には思いもよらない事態が待ち受けていました。 

先ず独り歩きが非常に困難になり始め夜間のトイレの用足しにベッドから立ち上がる事が難しくなり私の援助を必要とする様になったのです。 それに日常会話がたどたどしくなり中々はっきり喋られなくなり始めた事、話したい言葉が思い出せない等の言語障害が目立ち始めていますので気になっています。 一般に動作が鈍くなって来ました。 一度に脳の刺激が治まるとこれ程までに体調に影響するものかと驚かされています。 毎日決まった身体の動きは大変重要な事だと思い知らされています。 然し記憶の方は意外と覚えている事が多く逆に驚かされる事が多いくらいです。最近は以前の様に同じ質問を繰り返さなくなりました。 色んな状況に慣れて来たからでしょう。 今年は残す所数日で無事に新年を迎える事が出来る事は嬉しく思っていますが、来年は今年よりももっと厳しい日々が待ち受けている事を予期して前向きに頑張って参る所存です。 

皆様に取りましても何卒より良い年となります様に末永く、ご多幸とご健康をお祈り致します。

今回は一先ず東京スカイツリーのみの写真を掲載させて頂きその他は次回にご覧頂きます。 

ALOHA
   
         浅草から撮影した写真です。
         
         


         


         


         


         







認知症と宣言された妻の愛を求めて {其の一}

2013-12-27 03:21:25 | 闘病・介護
大変永らくお休みをしてご心配をお掛けし申し訳ございませんでしたが、この度新規に更新させて頂きましたので今後共宜しくお付き合いお願い申し上げます。

今年の1月7日に新年の挨拶を乗せ、嬉しい励ましのコメントも頂戴し、更に1月14日にはアウラニホテルに就いて簡単な紹介をしたのが最後のブログの記事となりました。ブログに相応しい内容の記事に有り付けなかったのです。

今になって振り返って見ますと、その後家内の病状が一転して以来、それまでの介護の対応がやや変わって来ました。 家内の日常の動作が幾分機敏になった事、会話の時間が増えた事、顔色やその日の体調を伺いながら新規に遣り始めたリハビリに取り組みました。最初は嫌がるリハビリの厳しさについて行けず、励ます事に一生懸命でした。 徐々に独自で食事が取れる様になり体力も少しづつ備わって来ました。親しくなった近所の人達からの励ましの声援も掛けられる様になり片言の会話も交わせる様になって順調に回復して行く様子が伺われました。 

こうした少しづつの変化に依って私の介護に費やしていた時間が何時の間にか日常日課となり、自分自身の纏まった時間が取れなくなっていました。 毎日の日記を継続するだけでもやっとの事で、ブログの記事を書く時間が取れなくなったのです。 私のパソコンに向かう纏まった時間は家内の頻繁に声を掛けられる事で邪魔をされていたのでした。 家内の頭の中には沢山の空間が出来ており、不安一杯の気持ちを私に投げ掛けていたのです。 認知症特有の健忘症に依る記憶喪失の為、毎回同じ質問を繰り返して訊かされる毎日でした。 その都度、私は同じ口調で家内の質問に応えてやっていましたが、その内にどうしても苛々する気持ちを抑える事が難しくなり時には声を荒げる事も屡々有りました。

そんな私に家内は今度からテープに同じ返事を録音して聞かせてくれれば良いからと自ら私への気配りをしてくれていました。
こんな日々を知らぬ間に過ごしていた7月の18日に不意のアクシデントが起こったのです。
この続きは次回の記事に記載させて頂きます。