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こぐまのらくがきファイル

日々の出来事、思ったことをつづります。

過去作品 その1

2018-12-02 16:52:24 | 昔話
部屋や物置きの整理をしていると昔の作品が出てきます。

それは写真だったり現物だったり色々なのですが、埃と一緒に懐かしく古い思い出のようなシロモノなのです。

ウン10年前のものなので、旧作もいいところなのですが…。
一部インスタにも上げましたが、ブログの方が恥ずかしくない… いや、あんまり変わらないか。



はい、これはガラスの作品です。
上下別々に作りました。

上部はガラスの板をガラスカッターで丸く切ってから板状の色ガラスを並べて丸いお皿のようなものを焼成します。

そのあと、ドーナツ状の型の上にそれをのせてまた焼成します。

宙に浮いた部分は焼成する時に溶けて落ち込みます。

そうすると帽子を逆さまにしたような形になるのです。

板ガラスを切って貼り付けて焼成する技法をフュージングと呼びます。

出来上がった逆さまの帽子は安定しないので台座を作りました。
それが下部のガラスです。
こちらはパートドヴェールという技法です。

見た目と違ってこれまたすご〜く手間がかかっているのです。

まずは粘土で形をつくります。
あ〜でもないこ〜でもないと言っていたらこんな形に。(^^;
ガラスについては初心者でしたので計画性なく進めてしまいました。

それを石膏で型を取ります。
石膏取りは正直苦手です。
最初はお好み焼きのタネみたいにトロトロなのに、急激に硬くなります。慌てます。

完全に固まったら中の粘土を取り出します。
そこにガラスの粉を詰めます。
ガラスの粉の大きさで出来上がりの質感は変わってきます。
粒が大きいと透明度が高く、粉のように細かいと不透明に。

ガラスを詰めた石膏をまた焼成します。
中のガラスが溶けて完全に冷めたら石膏を外して出来上がり。

パートドヴェールの台座にフュージングの ガラスが載っている訳です。



焼成すると今まで書いてきましたが、全て電気窯に入れて焼いています。

窯で焼成して制作するのをキルンワークといいます。

吹きガラスはとても暑い工房で熱しながら制作しますが、この技法は電気窯に入れるまでは熱を使いませんので、冬場などだと工房はむしろ寒いくらいです。
焼成は窯の蓋を閉めるので、焼成中も窯以外は熱くないのです。

ちなみにこの画像は当時のバイト仲間が撮ってくれました。
ちょうど写真を習っていて、うまく撮れるかわからないけど、と作品を森林公園まで持って行き撮影しました。

懐かしいです。

似たような作品でこんなのもあります。



あと、ちょっと焼成でフュージングの皿を落とし込みすぎて地面に垂れてしまったものも。



まるで帽子。ハットですね。
少し大きめの作品なのですぐさま頭に被せました(笑)

焼成温度がきっと高かったのでしょうけど、色ガラスをのせた部分が少しグラデーションになって これはこれでよかったかな、とも思います。

制作期間は数週間…
なんだかんだ数ヶ月かかってたかも。
よく覚えていません。
出来上がりを想像しても思うようにいかないのがキルンワークです。

何に使うの?…と言われたら困りますが。


習作なので・・・





























懐かしい友 Part 2

2013-11-19 14:34:19 | 昔話

先日、音沙汰のなかった旧友たちと 久しぶりに集まって飲んだ。


過去記事「懐かしい友」とは別の旧友で、今回は高校の同級生。

卒業後も自分が独身の頃は、早くに結婚した旧友の家に集まり時々昼から飲みながら色々な話をしていた。

今回はそのうちのメンバーのNの自宅が会場になった。
集合は朝の9時。いつもより更に早いスタートである。

もちろんお酒は用意されている。
テーブルの上には彼女の手料理とスナック菓子のカラムーチョ。

「カラムーチョおいしいよね~」

と私が言うと、

「これは昔 、ベベ(私)においしいスナック菓子が出たって教えてもらったからまた買ってきたんだよ」

そう、随分昔の事だが当時は激辛の菓子は珍しく衝撃的なデビューだった気がする。

そして記憶はするすると遠い昔に・・・

ーーーーー

旧友Nは高校時代から長いこと劇団に入っていた。
そして高2の時、私は今池のアートスクールに通い、彼女は同じ駅が最寄りの某劇団に通っていた。

学校は田舎の高校だったので、放課後に都会で習い事するだけで充分大人な気分だったけれど、アートスクールが済んだ後に私は更に寄り道してNの劇団に遊びに行ってみたりした。

今はもうないけれど、古い喫茶劇場。練習が早く終了した日は照明は消え、薄暗い店内をNにこっそり案内してもらい、ワクワクしたものだ。

その近くのマンションの最上階にNと夜景を見に行ったりもした。
当時は高層ビルについている航空障害灯の名称がわからなかったので、勝手に私が「ぽってん」と名付けていた。
なので夜景を見るというよりは「ぽってん見に行こう」なのだ。

高校生というだけで、何をしても夜遊びのようで楽しかった。

ーーーーー

その後、社会人になってからも彼女は多くの舞台に立ち、脚本や演出もこなした。

私は彼女の芝居は必ず観に行き、練習が忙しくない時期は一緒に飲みに行ったり…という付き合いが何年も続いていた。

そんな彼女も近年はコピーライターが本業で演劇はやっていないが、いつかまた彼女の舞台が観たいなぁと思う。

たまにしか会う機会はないけれど、お酒の席ではなく観客席で。




・・・なんて、なかなか本人に向かってそんなことは言ってないのだけれど。






















ちょっと変わった美容室

2013-09-23 09:37:06 | 昔話

今から十数年前、ちょっと変な美容室に通っていた。


まだ独身の頃 、通い出したきっかけは、ひげ部のうち2人の部員が行きつけにしていたこと。(ひげ部←過去記事)

ある時
『べべ(私)を変えちゃおう』
というテーマ(?)で連れて行ってもらった。
ひげ部員行きつけとあって、やはり変わっていた。

美容師は男性2人。アルバイト店員1人。
店内は壁に様々な写真や切り抜きなどがピンナップされ BGMにレゲエ…とオシャレな反面、バイクやバイクいじりの工具が置いてあったり、常連客のタバコの煙、猫もウロウロ・・・

部員のひとりはパーマ中の格好で待合のソファにすわり、棚のコミックを読みふけっている。
もうひとりの部員はヘアマニキュアを注文するのに

「ニンジン色にして~」

「おう、わかった。」

その他の常連客はエクステやアフロなど特殊技術を目当てに通うバンドマンとかアーティスト(?)とか…。

2台あるシャンプー台の片方は壊れていて1台のみ稼働…。
美容師のお昼ご飯の弁当を買いに走る常連客…。時には差し入れのお酒。


どーなってるこの美容室・・・。

場違いな雰囲気の私は緊張しまくりで固まっていた。

そしてオーナー美容師が、

「連れ(私)はどうする?」

「今日はヘアカラーがしたいです…。」

普段より明るめのカラーにチャレンジ。

「お、今日は連れ、変わるぞ。」

と、ひげ部員に報告するオーナー美容師。

なかなか満足な仕上がりだったので、私はその後続けて通うことにした。

しかし そのお店と美容師は独特で、いわゆる普通の美容室では考えられないことも多々あった。

カットをして髪がすっきりすると、

「はい、終わり!」

「え?ブ、ブローは?」

「自分で乾かしなっ。」

「?!!」

「あ、車だったよな?大丈夫、窓開けて走れば家着く頃いい感じになってるから。」

「・・・。」

が、確かにそれは本当だった。

時には

「なんか、アンタ変な眉だなっ。」

「え、そ …そうかな?」

「なおしといてやるよ」

と、眉を整えてもらったり。

そのうち私の家が遠くなり、ほとんど通えなくなってからも、ひげ部員の結婚式に出る為のヘアセットを久々に行ってお願いしたらメイクもサービスしてくれたり…。

技術はもちろん、良心的なお店だった。

その後、オーナー美容師がお酒の飲み過ぎか?体調不良だったり色々あって、やむなく一旦閉店となったがーーー。

ここ最近は地元で復活されていると風の噂で聞いた。。。





今も変わった美容室なのかなぁ・・・(汗)













ヒゲ部

2013-07-25 11:10:56 | 昔話

もう何年も前の話になるが、とある企業で私が派遣社員をしていた頃、ちょっと変わった仲間達との出会いがあった。


今までに私は様々な職種で色々な職場で仕事をしたことがあるけれど、この派遣社員の頃が一番のびのびとしていたように思う。

その職場は正社員はわずかで、ほとんどが派遣社員で構成されている部署。
立場は同じような人ばかりだけど、年齢や前職の職種は実に様々だった。

子持ちの主婦もいれば、前職が公務員、美容師、調理師、アパレル販売員、バンドマン・・・と、その、企業にはまるで関係のない経験の持ち主がたくさんいた。

当然 趣味も嗜好も違う。

そんな中 まだ配属されて間もない私に席の近かった同僚から一枚の紙を渡された。

そこには

「あなたもひげ部に入部しませんか ー」。

ひげ部・・・。

紙は何故かオウム心理教の麻原氏をパロった感じで髭を強調した写真入り。
用紙は一見怪しげだけど 宗教などではなく、ちょっとマニアックで面白く気の合う数人の女子のグループである。
大勢の派遣社員の中の一部の人で勝手に部活と称し、活動していたのである。

彼女たちは アートや映画、音楽や演劇などかなりカルチャーなこだわりの趣味を持つ人達だったのだ。

用紙には丁寧に 入部希望者の氏名記入欄があり、ひげ名…とまである。
一応その仲間の中には部長やマネージャー、幽霊部員…という肩書きの人までいた。

結局、私は ひげ名や肩書きなどはないままに入部していた。

ひげ部の活動はこれといって決まったものはないけれど、部員の中には劇団に入っていたりバンド活動をしていた人がいたので 芝居やライブを他のみんなと観に行ったりした。

冬になると、部員の自宅でクリスマス会もやった。

写真を撮るのも結構好きだったので、撮影会をやろう!と野外でピクニックがてら集まれば 皆一眼レフカメラを手にしていた。

パソコンも強い人達だったので、苦手な私は年賀状作りなどでもお世話になった。

仕事中もOA用紙をいかに無駄なく使うか工夫を凝らし、ちょっとしたエコ活動にもこだわったりしていた。

とにかく色々な意味でその仲間から教わることが多かったように思う。
自分はその時 既に30代になっていたが、まるで学生のような刺激的な日々だった。

そんなこんなで、現在までに疎遠な期間がありつつも、なんらかの繋がりを持っている仲間たちである。

私よりだいぶ若い人たちだが、そんな彼女達も今ではママになり育児に励んでいる。
数年前には 「ひげママ会」なんてこともやった。
相変わらずマニアックな話題も飛び出す。
何年経っても感覚は変わらない。

・・・ところで 「ひげ部」。

実は名前の由来は今でも私はよく知らない。
ひょんなことから付いた名前だと思うけど、多分そんなに意味はない。
女子のグループだし、誰も髭なんて生えてない。



まぁいいではないか・・・という集まりなのである。





一日5枚のクロッキー

2013-06-13 16:32:09 | 昔話

先日の旧友に偶然再会した記事で、受験時代の画塾について書いたが 今回はそれの続き。


その昔、通っていた画塾では 週末の夜になると先生達の麻雀が行われていた・・・。
その前に 夕方の受験生の授業があるが、週1で遠方から来られるM先生がデッサンの指導をしてくださっていた。
当時、クロッキー(短時間でする描写)は受験生の毎日の宿題になっていた。

入塾した最初の1か月間は円筒形の静物を毎日宿題で描く。
家で塩や醤油の瓶、ジュースの缶など。
その後はひたすら人物クロッキー。

枚数は一日5枚。
これが結構大変なのである。
一日5枚というとまぁまぁな枚数の様に思えるが、一日サボると翌日は10枚になる。一週間で35枚…。
毎週末、M先生は来られるのでまとめてみて頂くことになる。

私は、家では父や母の後ろ姿を描いたり、祖母や弟にもモデルになってもらったりした。
学校では、クラスメイトに頼み込んで放課にあんまり動かないようにしてもらって描いたり…。
そのうち枚数が足りないと、電車やバスの乗客も描くようになった。
プールの季節には、画塾の友達と公共のスポーツセンターに出向き、遊びつつも こっそりプールサイドで他の人をモデルに描いた。

夏休みになると さらにお題はプラスされて休み期間中に動物100枚となり、動物園に通った。
枚数が足りないと、友人の家の犬や猫も描かせてもらった。


そして このクロッキーにはなんと、枚数不足だった人に罰があった。

現代ではちょっと問題になってしまうかもしれないが、足りない枚数の数だけお寺の修行僧のように棒で肩を叩かれるのである。
棒は結構重くて 太い角材なのでかなり痛い・・・と思う。

毎週末 麻雀が始まる前の時間に、ひとりずつM先生にクロッキーをみて頂き あまりいい加減な内容だと枚数のカウントはされない。

この時間はいつになく緊張していた。

時に 一週間ほとんど手をつけずに過ごしてしまった生徒は、夕方になって泣きそうな顔で慌てて白紙をうめていたりした。

叩かれると決まった人は 皆少しでも痛さを軽減する為に上着を羽織ったりするのだが 、中には潔い浪人生もいた。
余程反省していたのだろう、上着どころかシャツも脱ぎ、「お願いします」と素肌をM先生に向けた先輩もいた。

もちろんM先生は容赦ないので、一発ずつゆっくりと バシ!と音をたてて叩いていた。
真っ赤になった肩を仕舞い、「ありがとうございました」とお礼を言った先輩に 皆注目をしたものだ。

・・・・。

結局のところ、私は1枚も不足することなく受験時代を終えた。

今となると、痛いのの怖さで必死になって描いていたのが何だか滑稽であり恥ずかしくも思える。
そうまでしないと枚数描けなかったのだ、と苦笑いな感じである。

どんな罰があろうとなかろうと、大量にクロッキーをしたことは本当にいい経験になったと思う。



山積みになったクロッキー帳。
大学時代のデッサンは捨てることが出来ても、これだけは捨てられない。




















甦る遠い記憶

2013-05-11 00:25:58 | 昔話

連休中に ちょっとビックリなことがあった。


先日 このブログで記事にした友人に偶然バッタリ会った。

それは、受験の時に画塾で一緒に学び大学と下宿のアパートが同じだった懐かしい友。

3月末に約15年振りに再会を果たしたというのに、1か月程経った先週 偶然出くわした。
東京から年度末に帰省して たいして間もあかずにまたGW帰省していたらしいが、ふたりとも住んだこともない他県での再会、岐阜美濃焼まつりの会場。

30万人が訪れるこの陶器市、友も私も初めての来訪だった。
もし1か月前に再会していなかったら、人混みの中すれ違っても「似てるな」と思っただけで声をかけることもなかったかもしれない。

「えー!!!なんで~?!!」
ふたりは声をあげた。


そんなこんなで、遠い記憶が するすると引っ張り出される今日この頃である。

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画塾は地下鉄今池駅に直結した雑居ビルの一室にあった。

故 前衛的洋画家が営んでいたアートスクール。
当時 女子高生だった私は 地下道からエレベーターでアートスクールに向かうのだが、エレベーターのすぐ横にはピンク映画館の入口、そしてポスター。
ビル内には昔 キャバレーもあったとか。なんともいかがわしいビルだが、受験のために私はアートスクールに足繁く通っていた。

アートスクール自体も、その頃の自分には刺激的な空間だった。

何年も浪人している先輩達、会社帰りに絵を習うサラリーマン。
受験生も 彫刻科をめざしていたり、洋画だったりデザインだったり。
色々な人が小さな空間で学んでいた。

週末になると、遠方から先生の美術仲間が、何人か訪ねてくる。

受験生には宿題になっているクロッキーを1人ずつ指導してもらえるのだが ひと通り終わると、先生達は麻雀を始める。

ジャラジャラと大きな麻雀の音をバックミュージックに私達は石膏デッサンを描き続ける・・・。

そんなアートスクールだった…。



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昔話は書き出すとキリがないので今日はここまで。







懐かしい友

2013-04-22 15:41:58 | 昔話

3月の終わり、古い友人に再会する機会が何度かありました。


そのうちのひとりは本当に長い間会っていなくて、大学卒業後に上京して今もずっと東京で暮らしています。

何年振りだったでしょうか。
私が会社勤めをしていた頃に出張で東京に行った時はよく泊めてもらいましたが、それもずいぶんと昔。
携帯電話を持ってから、お互い電話番号を一度も変えていなかったのが幸いで 数年前にまた気紛れに連絡をとるようになりました。

今回は彼女の帰省のタイミングで久々の再会。
以前 東京で会った時は学生の頃の面影があまりないくらい変わっていたので、今回はどうだろうとドキドキ。

しかし、待ち合わせ場所ですぐに彼女を見つけることができました。

「すぐわかってよかった~。」

と私。

「以前の時はかなり派手な格好だったけど、もうこの歳だから落ち着いてるよー。」

彼女は微笑みます。

私達はゆっくり話そうと、コメダ珈琲店に入りました。

ふたりの話題は一気にさかのぼり25年以上前の昔へ。

昔 彼女とは画塾で一緒になり、美大受験のデッサンなどを学んでいました。
その後 専攻は違いましたが、地元の同じ大学に進学し、同じアパートの上下の部屋に住んでいたのでよく晩御飯を食べに行ったりしていました。

夕方、ボロアパートの柱を コンコココンコン、コンコンッと どちらかが叩き、トイレのドアを開けて便器に向かって、


「今日 晩御飯どーするぅ~?」


「『タカチホ』にしよ~かぁー?」


「そ~だね~そーしよ~!」

よく食べたのはどて煮定食、サンマ定食…。
他にも喫茶店のモーニング、ラーメン店、とんかつ屋…。数えきれないくらいのお店の名前が上がります。
こんなに外食してたのか…という感じです。
よくまぁ覚えていること。
すっかり抜け落ちている記憶もありましたが、大笑いなエピソードが満載でどれだけ長居しても話しきれない思い出ばかりでした。
とてもいい時間を過ごせました。


古き良き友っていいなぁと改めて思いました。