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福岡ソフトバンクホークスを科学する。

1989年平和台時代から鷹キチの情報発信。
ダイエー→ソフトバンクに変わりました。
厳しい応援の目は変わりません。

私にとっての89番・・・その1(8166)

2008年10月12日 | スポーツ

ドーム開業1993年。すべてはここから、すでに王体制の序曲は始まっていたのである。ドーム開業初年と2年目は、あえて、球団社長的な、根本さんが、この弱いホークスを実際触れて、その課題を見つけて、王さんに引き継ぐ。

あえて、亡き根本さんのことを考えれば、そうだったのかと気がつく。当初監督受諾はおかしいと感じたからだ。西武では、GM的な仕事であったのに。

中内、堤会談で、獅子の意向が注入されたのだ。坂井氏もそうだ。そして根本さん。ファンへやさしかったですね。

この二人の会談、男と男の話だけで決まったのではなかろう。中内特有の??で決定しとのでないか。

そして、根本さん、西武→鷹へ。

【王さんは・・・・本当に・・・野球がすきぞ!】

1994年には、根本さんの口から、この言葉が何度も飛んだ。当時オーナーさえ、彼(根本さん)の行動もその日の、動きも全然知らず、まさに隠密な行動で、いわゆるカバンひとつで、どこへでも???まさに進出気没の方であった。

オーナー就任の祝宴にも、その行方はわからなかったくらいだ。

その辺から、すでに王監督の誕生のために食指は動いていたに違いない。あやしい動きだった。そして、あの大胆なトレード。ここにも彼のその片鱗が見えた。

九州中は、反対のノロシ。これでは、どちらが鷹で、どちらが獅子か不明??という状態。村田、佐々木選手は我が鷹の宝であった。

西武からは、工藤、秋山、内山選手。まるで、FDHが優勝するまで、交換リースした

我輩も驚き反対したくらいだ。
西武からは、工藤、秋山、内山選手。まるで、FDHが優勝するまで、交換リースした感じであった。すべては、王体制に引継ぎするためにだ。

ただ残念なのは、王体制初年度は、根本さんの考える心の内と違って、王さんは、その心は読めなかったのではないか。
初年度は、お好きなように・・・・という感じを。

王体制初年度の目標・・・・・まさに豪快、攻撃野球を実施。九州のファン好みだからか?コーチングスタッフも、豪華メンバーで、まさに京会席のおいしい料理のメニューみたいだった。

あにはからんや??コーチ陣の不仲が聞こえたり??まとまりも無かったり。ベンチの雰囲気はすぐ選手に伝わった。理想と現実の差。初年度と2年目のメンバーで、去っていったスタッフを見ればよくわかる。

王体制2年目は6位。すべてウミを出し切ったわけだ。当時オーナーもよく勝利、白☆を待ってくれたものだ。あのやかましい中内さんが。怒り心頭だったに違いない。
いまわしい事件もあった。我輩も、もうファンをやめようと思ったくらいだ。

王体制で、当時外国人(韓国)のことで、さすがの根本さんも、頭が痛く、当時顔色も悪かった。横で見ていて。

この頃東京で、亡きオーナーとお会いして、懇談させてもらった宝の時間が、今でも思い出される。この件も、詳しく新聞などから、情報収集されていて驚いたものだ。
この韓国選手、全土で反対、仲介人のミス(だまされた)ではなかったかという意見もあったようだ。

王さんの攻撃の基本は、中軸で大きなあたりで打って、戦うといういわば、ノーカバーの打ち合い的に見えた。犠打の少ない監督さんであった。盗塁は多かったのだが。

初年度76個・・・・・これはリーグ最低であった。王体制初年度は5位で終わった。なを最近のメデイアは、厳しい意見は、・・・・・取材班取材と称して、 逃げをうっている。
記者の文責では決して言えない、言わない、書けない・・・の日光の猿みたい。書く、言う勇気さえない。まあ、人気商売ですからね。

今そういう記事がやっとこさ散見できるが、遅すぎする。試合中途でさえ、明確に、論ずるべきである。
いまのままでは、憤慨した読者の代弁にさえならないのだ。頑張れ頑張れのファンの意見さえでは、甘すぎるのだ。

結果、退団の今季・・・・どべだ。

先日のNHKの特集さえ、ピントはずれの、フローで、情けない番組。1時間半も録画して拝見したが、ガックリ。地方とはいえ、NHKの情報収集さえ、あんな感じだから、熱意さえ感じられない。ありがとう感動を!は同調できるが、後は、時間の無駄。

アブサンの作者の電話取材の内容が、真のファンのこころであった。この番組失礼だが、追悼番組のような、品のよい??・・・中身の無い番組であった。NHK!
金返せ!!と言いたい。

話はもどって・・・・・。
王体制2年目も犠打83個で最低だった。(結果6位)さよならのゲームで敗退も多かった。まさに閉店間際の・・・・と呼称された。

選手が勝つことを知らないとか良く言われたが、この犠打でさえ見ても、進塁、勝負感、勝利さえ、目標がどこにあるのか、全くわからなかった時代である。

選手のせいではなく、指導者、ベンチワークのせいでしかなかったのではないか。
他の成績は、大きな差がある数字ではなかった。
まさにここ(犠打)から、チーム団結力がつくのにだ。本塁打さえもそう大差はないのだ。

この2年間は、王さんの豪快野球の言葉は、先行して、下位に甘んじたわけだ。
その後、意味が解からないが、スモール野球という言葉さえ出てきたのだが。

王体制1年2年目はすべて、根本、王、ベンチスタッフの3者の空回り時代だったといっていいのではないか。選手(駒)はその結果、うまく動けなかったのだ。

意識が変われば働くというのは、広島へ行った加藤投手、阪神へ行った下柳投手を見ればよく解かるのでは。
もっとも、我が鷹を退団しなければならない理由も当時あったのだが・・・。
                                                                                                                         この項つづく。

(追記)

もっとも、根本体制の、あのバントしない2番打者・・・・カズ山本選手は2番打者ながら、一年を通じて、あの怪我にもかかわらず、打率3割以上の粘っこい、チャンスに強い打者であった、そうであれば理屈もあうが・・。