石ころ

神を知ることを喜ぶ(エペソ4章)

 

ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。(21)

 

聖霊の導きによって、みことばから「キリストを教えられている」か、キリストをどのような方と知っているのか。そのことがキリスト者のいのちとなり、命取りともなる。

 

古い人を脱ぎ捨てて新しい人を着ているのか、それは事実となっているのか。みことばにその確信を探し求めたことがあるのか、そうして、今は安息に至っているか。
キリストがしてくださったことを知り、その恵みに留まることは人が選択することであるから。

 

その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、
またあなたがたが心の霊において新しくされ、
真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。(22~24)

 

新しくされ続けることは、導かれる聖霊に命とするものをお委ねして、この身に成って行くことである。聖霊は年数に応じて自動的に働かれるのではなく、私たちの霊の従順と共に働かれるからである。

 

悪魔に機会を与えないようにしなさい。
悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。(27~29)

 

言葉をもっとも多く用いるのは家族や友人の間である。それは大切な人の耳に絶えず流れて行く霊である。人様のうわさ話や、感情的な肉の言葉が溢れているなら、時々みことばを口にしてもそこに聖霊は居られるだろうか。

 

聖霊の臨在にある者は、家族の不信仰な言葉を聞いたとき相槌を打つことはできず、悲しみつつそっと祈るのみである。
時に、建前を語る頑固さや冷たさのように非難されても、悪魔のフィールドにある共感や思いの共有は、たとえ一時家族の温かさや団らんのように見えても、聖霊のご支配に逆らって立つ所である。

 

人の心には、悪魔のばらまくあらゆる汚れた思いもチラつくものだが、それに思いを巡らし口に出すとき、自他の耳にフィールドバックされ記憶に焼き付けられて、心に罪の滓を積み上げるのである。また、そのような反応が習慣となり家庭に何時も存在するなら、そこには聖霊の居場所は無い。

 

神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。(30~31)

 

キリストによって押された救いの証印から目を離さないなら、感謝に満ちて生きる意識が変えられ、聖霊に導かれた人のうちに、キリストの聖さが完成されて行く。
それは頑張って自分の心を変えるような事ではなく、ただ、たまわった神との平和を味わう幸せのなかで、汚れから隔てられて行くことである。

 

お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(32)

 

意地悪をした人の秘密を知っていても、私はそのことを用いて仕返しをしようとは決して思わない。その人との関係にはよらず、聖霊によって満たされているキリストとの愛が、心を覆っているからである。この、とても繊細で大切な領域を汚したくないのだ。

 

聖霊を悲しませる行為は、着せられたキリストの義と聖さを脱ぎ捨てて、旧約の時代にエジプト懐かしんだ人々のように、肉の満足を求めることであり、未だにキリストを知らず知ろうともしない不信仰から出たことである。
それは聖霊の臨在に在る私たちには、旧約の彼らよりもはるかに罪深いことである。

 

私たちはイエス・キリストを知ったとき、罪の支配の奴隷から、キリストの御救いにある安心の中で、義と聖さに生きる自由を得ている。それゆえ、神の子とされている誇りを、今日も明日も世に現わして行くことが出来るのである。

 

わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。(ホセア6:6)


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