私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。(7)
キリストの賜物の量りが、どれほどの愛に満ちた恵みであるか・・、そこで量り与えられたものがどれほどの価値あるものか、もし、知ることができたら、そのたまものを持ちいることにのめり込むであろう。
その時は、他の人の持ち物に目を向ける余裕など無いだろう、比べている暇などないだろう。人の評価に何の興味もなくなるだろう。
自分にぴったりの役割は、喜びと充足感に満ちていて、主にたまわった役割に無我夢中になるであろう。
そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」(8)
サタンの支配に囚われて死の呪いのもとに置かれ、罪から逃れられない人の定めを、キリストの十字架は捕虜として、天に在る赦しを賜る者とし死の呪いから解放してくださった。
神の恵みを受けることが出来なかった罪の汚れを、十字架の血潮に洗いきよめて、新しく生まれさせ、勝利のたまものを分け与えてくださった。それゆえ、その役割を妨げるものは取り去られているのである。
この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。
この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです(9~10)
地に降ってくださったキリストは、人の世の最悪をその身に経験してくださった。それゆえ、人の弱さと悲しみを知り尽くす方であり、天に昇って御父の右の座に座された今、すべての必要を満たしてくださった。
それが個々に与えられている恵みのたまものである。それゆえ、聖霊に導かれるその働きは、完全な勝利がすでに備えられている。
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、(11~12)
神がご計画してくださったのは、人を祝福してキリストのからだとすることである。今、そのために働く栄光、主と共に働くことの誇りと喜び、その価値の味わいがどれほどのものであるかを経験させてくださるのである。
ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。(13)
たまものの最も少ない人でも受けている1タラント(6000日分の給料)を、地に埋めるのはなぜか・・、それは与え主なる神を知らないからである。
誰が自分の働きの結果を知っているだろう。誰が働きの責任を持てるだろう。それは主だけである。
すべて与え主に信頼することに拠らなければ、一歩も踏み出すことができないのがたまもの働きである。
不信仰は、たとえ一日分の給料でさえも、結果を恐れて地に埋めてしまうことになり、その人はパリサイ人がイエスを妬んだように、働く人の失敗を期待して、なんとか自分を正当化しようとするような悲劇が起こるのだ。
しかし、此処には「ひとりひとりにぴったりのたまものが与えられた」とある。キリスト者には全員与えられているのである。なぜなら神はご真実だからである。嘘つきではないからである。
それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。(14~15)
すべてのたまものは、キリストのからだにとって欠かせないものであり、すべては神の愛によって与えられた恵みであって、私たちはその恵みによって働くだけの者である。私たちをキリストに在って完成してくださるのは、神のご計画に拠ることである。
1タラントの働きも5タラントの働きも、神のお喜びは同じである。それはすべて神が備えた分の働きだからである。誰も神から与えられた恵みに依らなければ、御からだの働きは一切出来ないからである。
キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。(16)