
腹式呼吸はいつの間にか身に付いてきたようで、家にいても気づくことがある。今、それは大変ありがたい。腹式呼吸は腹が据わると思うから。体の反応って馬鹿に出来なくて、思いまで左右してしまうことがある。今は考えなければならないことが沢山あって、しかもそれは私にはどうにもならないことばかり。「世の嵐に悩むとき・・」そんな感じ。
祈りがあっても、騒ぎ立てるようにいろいろと聞こえてくる時、思い煩ってしまうこともある。だから、私には腹を据えて主を待つことがとても大切。次男が今、世の嵐の真っ直中で戦っている。最近は会うことも出来ない。システムに関わる彼の仕事は大忙しで、私たちにかまっている余裕はない様子。
そんな今だから気づくこともある。会社が大きいから安心なのではない。仕事が出来るとか、出来ないとかに因るのでもない。主が彼と共にいて下さる。主が私たちをご存知である。その事実によってのみ平安なのだと。
主は暗闇にたじろぐ私たちに、トンネルの向こうにみことばの光を灯して導いてくださる。だから、主に祈った祈りの答えを、私は腹を据えて受け取らなければならない。私の思う通り、理解の通りとは限らないから。ずっと後になって、頂いたそのみことばが実現した時に、覚えていて主を誉め称えよう。
今、なぜこのみことばなのだろうと思うのは、それは主の見ておられるところと私の見ている所の違いから。いつも主のみことばは永遠を指し示される。だから、そんな時は私も目を上げて主の示される方を見て喜ぼう。今日ひとつのみことばが心に深く残った。
「イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。彼は彼女を愛した。イサクは、母のなきあと、慰めを得た。」(創世記24:67)
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