
人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。(9:2)
イエスさまがご覧になったのは、群衆で入りきれない家の屋根を破って(マルコ2:4)、御前に病人を運んで来た人たちの信仰だった。その信仰に御目を止められ病人の罪を赦し病を癒された。
信仰の友はイエスさまに次ぐ恩人である。私もイエスさまの所に運んでもらった者であり、信仰の歩みは色々な方に助けていただいた。そのことは忘れてはいない。懐かしみ思い返すことも多い。
けれど微妙な違いに焦ってしまって議論になったり、通じ合わない部分をそのままに出来ない不器用さもあって・・、一緒に居られずひとりで矢のように突っ走っていた。
だから・・教会に連れて行ってくださった姉妹が召された時、人目もなく号泣してしまった。
信仰は他人の家の屋根を破るほどのエネルギーを持っていて、それは走り出したら止めようもない。それはキリストの愛に基づくものなのだけれど・・人は初めから終わりまでを知ることのない故に、説明の仕様もないことなのだ。だから号泣することになってしまう。
でも・・御国で会ったときには大笑いするのかなぁ。