「神ご自身が全焼の生け贄を備えてくださる。」という告白は、「だから何も心配はいらないと信じる。」ということではなくて、「最善の主、真実なお方の方法に、完全にお委ねしていれば良いのだよ。」ということだと思う。事実、彼はイサクに刃物を振り下ろそうとした。
主の方法に従順するには、私にだって死の経験が必要。それは自分で選び取るので自殺のようなもの。十字架の恥と嘲りと損失の覚悟が、たとえどんなに小さな事柄であっても必要になる。だって、そんな選びは世の人にはただの馬鹿にしか見えないことだから・・。
そのようにして捧げ、「後のことはどうぞよろしく」と主の最善にすべての望を託すことが、「主の山の上には備えがある」の信仰だと思う。
アベルの捧げものは、初子のそれも最良のものだった。どれほどにか愛着があっただろう・・それも「最良」は唯一でふたつとはないもの。アベルにとってはかけがえのない大切な子羊。大切なものだから主が求められるのだ。かけがえのないものだからこそ主に捧げる価値がある。
イサクも子羊も主ご自身が備えてくださったもの。そうして、ひとり子イエスさまを・・。

「今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。」(コロサイ1:22~23)