石ころ

一つも違わず実現するのを見る(ヨシュア記21章)

 

レビ人の一族のかしらたちは、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、そしてイスラエルの人々の部族の、一族のかしらたちのところに近寄って来て、
カナンの地のシロで彼らに告げた。「主は、住む町と家畜の放牧地を私たちに与えるよう、モーセを通して命じられました。」
イスラエルの子らは主の命により、自分たちの相続地から次の町々とその放牧地をレビ人に与えた。(1~3)

 

レビ人に与えられた地は、彼らが管理し放牧地として用いても、それは彼らの家系に引き継がれるものではなく、初めの約束の通りに彼らがたまわっているのは主ご自身である。何処に住んでも、何を管理していてもその約束は変わらないのだ。

 

キリスト者もこの世で諸々の財産を得て管理して、それらを大いに用いることがあるが世は一瞬に変わるもので、何時までも残り御国にまで持って行くものは、信仰と希望と愛である。

 

あらゆる試練に耐えて御国にまで持って行くものは、キリストの赦しという愛の記憶と、良いことを計画してくださった父なる神への感謝である。そうして、神に愛された日毎のお交わりの事実である。

 

祭司アロンの子らに与えられたのは、殺人者の逃れの町ヘブロンとその放牧地、リブナとその放牧地、(13)

 

レビ人は逃れの町を与えられて、殺人者と呼ばれる人々と共に住んだ。意図せずに殺人者となった心の痛みと共に住み、彼らに命の望みを与える働きである。それはもっとも神に近く在るレビ人に相応しい土地であった。

 

主は、彼らの父祖たちに誓ったように、周囲の者から守って彼らに安息を与えられた。すべての敵の中にも、一人として彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。(44)

 

主は御約束によって守り安息を与えられる。それは主のご真実から出たことであって、人は神の恵みに何も付け加えるものはなく、ただ、喜び受けるものである。すべてが神から出たことなので守りは完全であり、妨げるものは存在しないのだ。

 

この平和はキリストから受けたものであって、大いに喜び、主に安らぎ、みことばのお交わりの中で、日々にキリスト者が憩う世からの勝利である。

 

地を守るのは主であり、人の知恵や力は主が用いて下さる時に聖霊によって働く一部分である。人に完全な安息を与えるのは地のものではなくキリストである。

 

今や、創造主なる神に従う者を滅ぼすものは何もない。如何に綿密な策略であっても、あらゆる武器を揃えても、主に身を寄せるものを滅ぼすことが出来ないのは、よみがえりのキリストに在る彼らは、死に勝利しているからである。

 

この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」(Ⅰコリント 15:54)

 

主がイスラエルの家に告げられた良いことは、一つもたがわず、すべて実現した。(45)

世の初めから終わりまでを聖書は知らせており、その言葉を変え得るものは何も無く、今日までのことを歴史において見ることが出来る。

明日のことは今日まで味わって来たご真実な神によって、みことばの約束が一つも違わず実現するのを、永遠のいのちをたまわっている者は見るのだ。


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