みことばと祈りによって、主にあって解決しなければならないこの世の問題。
みことばに従順するには、愚かにならなければならない。私は賢くはないけれど、少しの知恵があり、人の考えていることや企みが少しは分かったりする。
だから、その少しばかりの知恵をかなぐり捨てて、さっぱりとみことばに従順するには、ちょっとした格闘が必要になる。
主との遣り取りが必要になる。私の中途半端な愚かさのゆえに・・、中途半端な信仰のゆえに・・。
賢さよりも愚かさが、得をすることよりも損をすることの方が、十字架に近いような気がする。なによりも、みことばに従うには愚かでないと従えないときがある。損を覚悟でないと従えないことがある。
何を愛しているのかと問われる。「主よ。あなたです。」と答えるなら、捨てるべきものが何であるのか答えは自然に決まった。
正しく裁かれるお方にすべてをお任せしよう。そう決めたとき、私はやっかいな問題から解放された。
どんなことでもすべては主と私自身の問題。誰の所為でもない。誰がどんなに悪かろうがそんなことはどうだってよい。主は生きておられる。そのことを私が信じるかどうかということ。
そうして、すべての問題を通して私は主の導きの中におり、すべては主への応答になるということ。
腹を括って聖書を閉じ、祈りの場を立った。
今までは、信仰を通して本当に多くを得た。これからは少しばかり成長して、失って行くことを、信仰の中で経験をしてゆくのかな・・などと思いをめぐらせていたけれど、なんとその後、次々と受ける事が続いて、「アラ、アラ、まだまだ私はイエスさまから見たら赤ちゃんみたいな者だった・・」と、私はちょっと微妙・・。

主は御霊です。そして主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな顔の覆いをとりのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに御霊なる主の働きによるのです。Ⅱコリント3:17.18