ヨセフは声をあげて泣いた。エジプト人はその声を聞き、ファラオの家の者もそれを聞いた。
ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして、驚きのあまり、答えることができなかった。
ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。(2~4)
この言葉は針のように彼らの心を突き刺したであろう。でも、彼らはその事実の前で、与えられた赦しを受け取れば良いのである。赦しを受けない時に、過去、現在、未来は罪に囚われてしまうのだ。ヨセフの言葉は責めではなく罪からの解放にある。
近づいて関係を確認するのは、主に対して私たちも同じである。父なる神は神棚に祭り上げられるような神々ではない。
私たちは朝毎に御前に座って聖書を開き、みことばを導く御声を霊のうちに聴いて、祈りの中で世の問題も願い事も申し上げて、平安と知恵を頂く特権を持っているのだ。
私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。(5)
神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。
ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。(7~8)
ヨセフは、神のご計画に用いられる喜びに満たされて、過ぎ去った罪は主の導きと備えであったと兄弟で喜びたいのである。一緒に神をほめたたえたいのである。
どうか、急いで父上のところに上って行き、言ってください。「息子のヨセフがこう言いました。神は私をエジプト全土の主とされました。ためらうことなく私のところに下って来てください。
飢饉はあと五年続きますから、父上も家族も、また父上に属するすべてのものも、困ることのないように、私が父上をそこで養いましょう」と。(9.11)
「全能の神がいるなら、なぜ飢饉を許すのか。」などと賢そうに神を責める言葉は、サタンから出る言葉である。此処に神の選びがある。初めに神に選ばれてある者は、霊の深みに従順という聖さが備えられているのだ。
神のことばの完成までの壮大なストーリーは、関わる者に主を知らせて関係を深め、信頼を増して行き、日々のコミュニケーションの中で、愛と慈しみと許しと忍耐を育てて、神の子を成長させてくださるのである。
ユダがヨセフを「殺さずに売ろう」と提案したのは、神から出た言葉であった。その時は悪に染まったような言葉や、善意に溢れたような言葉も、それによってどのような未来が現れるのか人には分からない。
神に備えられた言葉を真っ直ぐに語ることで、ご計画への備えとなるのである。そのような言葉は人の優しさや知識からではなく、聖霊によって備えられて口から出た言葉である。語っている者さえ結果を知らないのだ。神に用いられるとはそういうことである。
彼は弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンも彼の首を抱いて泣いた。
彼はまた、兄弟みなに口づけし、彼らを抱いて泣いた。それから兄弟たちは彼と語り合った。(14~15)
ひとりの人が神に従順する時、平和はご計画の中に備えられてある。此処にのみ完全な和解があるのは、歴史の何処に在っても、キリストに拠って罪の代価がすでに支払われ、神を信じる者の罪が解決されているからである。
主はヤコブにとても良いお方であった。私たちも変わることのない神のうち守られ、失敗だらけの者も忍耐と赦しの中で永遠の愛を賜っているのだ。