
わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。(ヨハネ15:1~2)
神様は農夫であり、イエスさまはぶどうの木。そうしてキリストに繋がる私たちは枝、私たちはぶどうの房ではなく枝。それも、実を結ぶ者は刈り込まれるとある。
だから、良いキリスト者は刈り込まれた枝。これは絵にもならないから、シンボルは房になったのだろう・・。
絵にあるような美しい葡萄の房は、酒舟にて踏まれ砕かれるのだから、実が粒ぞろいであるかどうかにはあまり意味がない。
果物屋さんに並ぶ葡萄は見事に粒ぞろい、それは人の業で、その美は人の好むもの。人が粒ぞろいが好きなのは目には美しく見え、そのほうが管理も容易いからだと思う。
神様はすべてのものを造られるが、すべてが個性的であって、まったく同じというものはなくそれこそが神の業だと思う。
神様には千差万別を管理することがお出来になるからであり、それぞれに応じて評価することがお出来になるからだ。
いかに多様であっても、それぞれの過程を準備し、忍耐を持って導いてくださるお方であるから、一律であることを必要とはされない。
刈り込まれた葡萄の枝は何処までが幹であり、どこからが枝であるのかわからない。
そう、実を結ぶ枝は木の一部として、完全に木と一体になって実を結ぶ。
実を結ばない枝は、男枝といって幹のように太く立派になってしまう・・と教えてくださった方があった。それは木の栄養を横取りするばかりでなんの益にもならず、実を結ぶための刈り込みではなく切り捨てるほかないのだと・・。
枝は木のようであってはならず、枝が良い実を成らせるのでもない。良い枝に成った実のそれぞれの違いはすべて磨り潰され、砕かれることによって良い葡萄酒となり、保存され、大切なとき用いられるものとなる。それこそは農夫の喜び、御父の喜びなんだ。