
あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。(マタイ5:7)
あわれみはイエスさまに頂いたものである。憐れみをイエスさまから受けた私たちは、他者に対しても単なる思いや感情から、いのちに至るための真に必要なあわれみの力を持っており、それを行うことができるようになるのである。
心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。(マタイ5:8)
きよさは十字架の血で洗って頂いたたまものである。それは世から聖別された神に子としてのきよさである。
みことばの約束に拠って神さまにすべての望みをおいている心のきよさである。その人は世に在る間もみことばを通して主を見ているのである。
平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。(マタイ5:9)
平和はまず神さまに罪を赦された者の「神との平和」である。それはイエスさまの十字架のあがないによって回復されたものであって、善悪の知識の木の実を食べて以来、互いに訴え合い裁き合う罪から解放された真の平和である。
それは世の状況によって動かされるものではなく永遠のいのちに至るものであって、平和をつくる者はこのことを世に知らせる者である。
イエスさまはすべての言葉を通して「わたしを離れては何もできない。わたしにとどまりなさい。」と言われる。
私たちはイエス様に在ってすべての幸いを賜わっている。真実に考えれば、これらのどれひとつとして主を離れて私たちには実現しないことを知るのである。