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石ころ

苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がった




 世で生きることはしんどさを感じるものだけれど、キリスト者にはあらゆる場合に、聖霊が絶妙にみことばを思い出させて、望みを持って生きるために、バランスを保たせてくださることを、改めて経験させてくださった。
みことばをそっくりそのまま信じて世に生きるためには、絶えざる主の備えに拠らなければ疲れてしまうのだ。

イスラエルは、奴隷とされた地の苦しみの中ででも増え広がったとある。これは神の祝福による強さである。キリスト者も同じ神さまの約束に在って、それはそれはしたたかな者のはずである。
しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた。(出エジプト1:12)

 ただ、そのしたたかさは人に向かうものではなく、縛り付けて支配し滅ぼす霊に対するものである。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)

主はすでに十字架によってすべての敵に勝利しておられ、試練の中で信仰を養い育て、日毎に新しく主の御力を経験させてくださる中で、したたかに成長するのである。
問題の見えない平穏無事は恐ろしいことなのである。その先には、近しい者を奪う永遠の滅びがソッと口を開けている。

 人は痛んだ葦でありくすぶる燈心である。罪が入ったことによって誰もが不完全で、自分自身を救うことができない者である。
イエスさまはその人を、ただ十字架のあがないを信じることによって、速やかに義として救い出してくださった。

彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。(イザヤ42:3)

一時、信じるために心の中の戦いを通るとしても、(謙遜の痛み)イエスさまの助けの中にあったことが後でわかる。ご真実な主は親しく語りかけ、見たことも聞いたこともない福音をたまわり、この世でもその幸いを味合わせてくださるからである。

 ひとり一人の信仰など僅かな力で倒れそう、自身の中を覗かせるだけで恥じて消えてしまいそうであるけれど、その弱さの部分に主が充満してくださり、みことばにしっかりと立たせてくださる、キリストの信仰による守りがある。

もし、信仰を組織や国家など人の力が守るなら主は退かれる。それを支配するものは人でしかない。信仰には混ぜものができないからである。

ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、
人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、
悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。(Ⅱコリント6:8~10)


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