愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。(1)
それが出来るのは素直にキリストの愛に浸されて、キリストのうちに留まることに依る。誰だって愛してくださる大好きな人には、「この方に似たい」と心から願うものであり、思考も行動も真似るものだから・・。
すべては、神の愛を経験することから始まることであり、神の愛の経験は、御子キリストの赦しの十字架によって知ることである。罪をあがなわれて、神の子とされた感動によって知る事である。
あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。
また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。(3~4)
「罪を口にするな、避けよ。」それは糾弾して戦うものではなく、遠ざけて関わらなければよいのである。でも、このような分かりやすい罪が、教会内に在ったことに驚くが・・
ただ、愚かな話の最たるものには、不信仰あるあるに盛り上がることや、不信仰に同調しておもねる言葉もある。その場でみことばを口にしたときの白けた空気・・、一体此処を支配しているものは何?ということもあるのだ。
あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者──これが偶像礼拝者です、──こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。(5)
肉の満足を求めることは偶像礼拝とある。不品行とはキリストの品性と相反するもの。汚れは聖霊に相反するもの。貪りは神の豊かさを経験しておらず、神を知らない故のものであり、やはりそれは偶像礼拝であった。
その人は神の国を相続できないとあり、たとえ、教会という組織の中に居ても、神を知ることが無ければ救われていないのである。
神を知らないということは、キリストに興味が無いということであり、与えられている福音の包みを解かずに、放置していることである。
むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。(6)
空しい言葉に騙されて同調することは恐ろしい。不信仰への同意は滅びに至る。それは神への不従順とある。
キリストはすでに救いを完成してくださってあり、救いのことばは目の前に備えられている。私たちはその救いのことばを選び取って、不信仰に向かってキリストの救いを宣言する義務がある。
だから、救いはキリストの独り相撲ではなく、私たちの霊とともに働くことなのだ。
ですから、彼らの仲間になってはいけません。
あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
──光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです──(7~9)
キリストの光の中に在るなら、どんな時でも自他に向かってみことばを語るのは、光の子どもだからである。みことばはキリスト者の道の光だから、私たちは何処に居てもみことばを語りつつ歩む者である。
キリストの十字架の血潮に洗われ救われている者は、二度と罪の暗闇に戻ろうとすることはない。光は闇を駆逐するからである。