このことを、先日ミクシィで「まるちゃん」がご紹介して下さっていた。まるで、自分の息子のことのように喜んでくださったことが嬉しくて心にじわりと染みた。
また、本の発売日を覚えていてすぐに買いに行って下さり、息子にお褒めの言葉をFAXしてくださった方も居て下さって、そのときもまるで家族のような愛を味あわせていただいた。
このような愛に触れるとき、愛のない私は本当に謙遜を学ばされる。
お二人の方から勧められて息子に応募を促したのだけれど、彼はあまり気乗りしない様子でだらだらと時が過ぎてしまい、「日本聖書協会」に「今から送っても間に合いますか?」と尋ねてからの送付だった。
そもそも彼にとって写真は、百パーセント自分の楽しみのためであって、誰に見せるつもりもなかったようで、私のブログに載せるときにも「せっかくの神様の作品である綺麗な景色や、可愛い生き物たちの姿なんだから・・」と、説得する必要があった。
息子にも、この経験を通して色々な方の愛にふれて、喜びを分かち合う楽しみを知らせてくださったのは主。
採用されたこと、褒めて下さったことも勿論嬉しいけれど、主にある愛の喜びを彼に教えて下さったことが、私には一番嬉しい。そうして少しばかりの自信も・・。
先日ある姉妹とお電話で交わっていたとき、
「私たちは、ひとり一人、誰よりもイエスさまを愛しているでしょう。なのに、互いにそのことで嫉妬しませんよね。不思議だと思いませんか?このことで、世のこととは全く違うのだと思います。」とおっしゃった。
私は初めてそのことに気づかされ、すごい発見をさせられた。
この世では、同じ人を愛し合っている者同士は敵でしかなく、その愛の物語はねたみの対象でしかないはず・・。
でも、私たちは互いに主から受ける愛や喜びは、自分自身の喜びともなってる。思えばとても不思議な関係。
それはきっと、人の魂の愛の仕組みによるのだと思う
「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。」(マタイ6:24)
でも霊的な愛はひとり一人を百パーセント愛する愛であり、そのことを知ったから私たちは、互いに主の愛を満ち足りるまで受けて安らうのだと思う。
一人の方が受けた愛は、私にも与えられている愛であることを確信するから、誰の愛も喜びも自分自身のものであり、私たちは共に居て分かち合い、一人の花嫁のように主を愛するのだろう。
厳しい苦難の中に居られる方を知ったとき、同情ではなく喜ぶことさえあるのは、今主がその方をどれほど心配してぴったりと共に居られるか・・と、想像することが出来るから、その愛の物語、その後のお証を楽しみに祈りつつ待つことになる。
素晴らしい愛の物語は、私と私の主との物語でもあるのだから。

見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、
なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。
それは頭の上にそそがれた尊い油のようだ。
それはひげに、アロンのひげに流れて
その衣のえりにまで流れしたたる。(詩編133)