主はモーセにこう告げられた。
「イスラエルの子らに告げよ。人が人間の評価額にしたがって主に特別な誓願を立てるときには、(1~2)
人間の価値観と、命を造られた神の価値観は違う。
信仰の初めの頃に「キリストはあなた一人のためにでも十字架にかかってくださった。」というメッセージを聴いたとき、感謝と喜びに満たされた。心に真っ直ぐに届いて平安に満たされたからである。
キリストは十字架で、一人ひとりを百パーセント愛してくださった。百人居ても百分の一ではないことを知ったのだ。
キリストの聖めと赦しを体験していたからであり、すべては、創造主の愛から発していることを知って、心安らかに「アバ父」呼ぶ霊をたまわり、祈る時はいつも「愛する天のお父様」と呼びかけるようになった。とても自然に・・。
その評価額を次のとおりにする。二十歳から六十歳までの男子なら、その評価額は聖所のシェケルで銀五十シェケル。女子なら、その評価額は三十シェケル。(3~4)
神に身を捧げるという願いを持ったときは、その人に相応しい捧げものを命じられている。この時、大人は大人の力に応じたものを備え、男は男として準備し、女には男と同じものは求められない。
主は男と女、子どもには人の評価額に応じて・・と言われた。これは人が付けた値段でもある。
その人が落ちぶれていて評価額を払えないなら、その人を祭司の前に立たせ、祭司が彼の評価をする。祭司は誓願をする者の能力に応じて彼を評価する。(8)
祭司は、その人の最大を引き出す働きをするだろう。捧げものを持たずに主に身を捧げる願いを持つ人を、祭司は惜しげなく与えてくださる主に導いて、彼を量るのである。私たちのうちに良いものを備えてくださるのは主であるから。
私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。(ローマ8:32)
献げることのできる家畜を主へのささげ物とする場合、すべて主に献げられたものは聖なるものとなる。(9)
主に献げたものを、聖いとしてくださるのは何と幸いなことであろう。
祈りは世にある事々も祈るのであり、あらゆる状況に在る必要を御前に求めることもある。
世の必要を求める祈りは何が汚れているか、何がみこころに叶う聖いことであるか、人には見分けることは出来ない。すべてを御前に曝け出して祝福を祈るだけであるから。
すべては、キリストのお執り成しによって整えられ、すべては聖くされて御前に届くとある。私たちが事々を主に祈るとき、聖霊はことを見分けて祈りのうちに導きを与え、執り成していてくださる。それゆえに、どんなことでも祈る自由があるのだ。
同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。(ローマ8:26)
聖霊に拠らなければ、人間の考えや時代の善悪に引き回される。誰も神のみこころを知らず、それゆえ、人には聖なる捧げものをすることは出来ない。
それをほかのもので代用したり、良いものを悪いものに、あるいは悪いものを良いものに取り替えたりしてはならない。もしも家畜をほかの家畜と取り替えることがあれば、それも代わりのものも聖なるものとなる。(10)
主がイサクを捧げよと言われたら、アブラハムの一切の判断を差し挟まず、イサクを献げなければならない。そうでなければヨブの息子たちのようになる。それは信頼の問題であり、神を一番に愛するという問題でもある。
主に名を呼ばれることはこの上もない栄誉だけれど、捧げものをもって御前に近づく時でもある。主が召されたものを、すり替えずに持って行く幸いは、永遠の祝福だからである。捧げた者も捧げられた者にも・・。
「主よ。来てください。」と携挙のときを願い求めるとき、名を呼ばれたならどんな時であろうとも、一切のためらいもなく応答できることを切に願っている。主は人に自由を与えられ、愛は応答することで完成するものだから・・。