
律法による行いの上に福音があるのではない。律法に絶望した者の叫びの上に福音は備えられている。
正しい裁きを求めるやもめの訴えに、すべての良きものに無縁であった徴税人の叫びに、乳飲み子の弱さの中に、盲人の必要の中に・・。
金持ちの議員は「何をすれば永遠の命を受け継ぐか・・」と尋ね、イエス様に示された律法について「子供のときから守ってきた」と答えた。ここで彼は自己完結しており、その上に永遠のいのちを積み上げるだけであった。彼に福音の入る隙はない。
イエス様は彼がより頼んでいる財産を「捨ててから付いて来なさい」といわれた。
すべての良きもの、家族や財産今まで自分の命の土台として来たものを捨てて(御前に捨てることは託すこと)自分の内を空にしてみことばを蓄える宝物庫とする時、唯一の望みであるみことばによって生きるのようになるのである。
熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。(ピリピ3:6~8)
盲人は叱られても「黙れ」といわれても、イエス様を呼んで止めなかった。やもめが裁きを訴えて夜昼叫んだのと同じである。そのことの価値を知っているからあきらめることがないのである。
「イエス様、霊の目を開いてください」となりふり構わずに叫ばなければ、私たちは今も生きて働くイエスに出会うことはなく、賛美をもって神をほめたたえつつ付いて行くことはできない。また、民がこぞって神をほめたたえる場もないのである。
「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ18:8)
再臨前の世では、人は集って塔をバベルの塔を築き上げて行くのだろう。人の目に美しい立派なものを・・。
しかし、神の裁きに耐えうるものが何であるか良く考えるべきである。
すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。
また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。(黙示録21:5)