
ペテロは牢の中で2本の鎖に繋がれ、両脇を看守に挟まれ、弟のように殺される危険を十分承知していたであろうに熟睡していた。
そんな状況でぐっすり眠っていたことは、眠りの浅い私にはすご~い驚きである。
平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。(詩編4:8)
本当にペテロは此処に住んでいたのだと思った。
でも、彼には彼を支える祈りがあり、その祈りの内に守られていたのだ。
こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。(使徒12:5)
しかし、この祈りが叶えられてペテロが帰ってきたとき、教会はそのことをなかなか信じられなかったとある。
人とはそういうもの・・人の信仰なんて悲しいもので辛子種ほどもないのだから・・。
それは、祈りを聞いていてくださるお方を見るのではなく、自分を見てしまうからだと思う。
祈りはただ、主のご真実によってのみ応えられるのだから・・。
ただ、御子イエスさまの御名によってのみ応えられるのだから・・。

先日のメッセージで、
皮膚病の人を癒す時、イエスさまは彼にさわって癒された。それはうつる病であったから、イエスさまはその人の病を負われ、その人の汚れを負われた。そうしてその人は癒されたということを学んだ。それが十字架であると・・。
私たちは自分の汚れを、まずイエスさまに持っていくことからきよめが始まるのだ。不信仰をイエスさまに持って行くようにして祈ろう・・。その様な祈りしかできない者だから・・。
聖書注解書に、「信じられなかったことも教会の謙遜であった」とあったけれど、それは違うと思う。
すべて祈りが利かれることは人の信仰に起因するものではなく、主の御名と憐れみに依ることである。
だから、祈ろうと思う。気付いたとき、気付いた人のために。自分の不信仰ごと主に持って行く祈りを・・。
そうすればペテロのように、祈られた方がぐっすりと眠れるのだから・・。そうして、みこころが行われるのだから。