ベテスダでイエスさまに癒された男は、パリサイ人にイエスさまが癒し主であることを告げる。
この時のこの男の本当の気持ちは分からないけれど、そもそもイエスさまはこの男に、口止めはされていない。
ただ、「もう、罪を犯してはならない。」と言われただけ・・。それは、彼が告げるその時の彼の心のありかの問題だと思う。
私はイエスさまのこと、知ったことや経験したことをぺらぺらとよくしゃべる。
それは主が嬉しくてとても黙っては居られないからであり、共に御名を崇めてくださる方に出会うなら、それこそもっと嬉くなって喜びを分かち合いたいから・・
だから、それは深く考えるという魂の作業を通さずに、時が良くても悪くてもそのことを真っ先にする。後のことは全部イエスさまにお任せで・・。
もし、この男がイエスさまをかばって黙っていたなら、この男の回復はあるいは彼自身の栄光になるかも知れない・・それこそ私の最も恐れること。
この男のおしゃべりが、イエスさまが神の御子であると明確な宣言のきっかけとして用いられている。
イエスさまはこの後、ご自分が神の御子であることを明確に語られる。父の神よりすべての権を委ねられていること、ご自身のわざはすべて神のわざであるとはっきりと語られる。
今、このことを言うべきだろうか・・と時を気にしたり、私のようなものが語ることは主に恥をかかせるのではないだろうか・・などと、まるで私がイエスさまをかばうような心遣いは、愚かしいサタンの気遣いだと思う。それは罠。
かばわれるのは私であり、私こそが気遣われている者なのである。どれほど考えても私に神のなさることがわかるはずもない。
けれども、主は私のすべてをご存じであり、私を引き留める方法も、進ませる方法もご存じなのだから。
道を誤った時には鞭を下さるだろう・・幾ら鈍くても、打たれたら痛いとわかる感覚があるのだから何も心配しない。主は人をコントロールされないけれど、御真実な方であることを知っている。
そもそも人は、イエスさまをこの世で一日でも長く生かすことを望める者ではなく、イエスさまの十字架のみわざを待ち望む他に、なんの望みもない者なのだから。
私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないために。私の口に口輪をはめておこう。悪者が私の前にいる間は。
私はひたすら沈黙を守った。よいことにさえ、黙っていた。それで私の痛みは激しくなった。 (詩編39:1~2)
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