石ころ

逃れの町(ヨシュア記20章)

 

主はヨシュアに告げられた。
「イスラエルの子らに告げよ。『わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、逃れの町を定めよ。
意図せずに誤って人を打ち殺してしまった殺人者が、そこに逃げ込むためである。血の復讐をする者から逃れる場所とせよ。』(1~3)

 

今、キリスト信仰に拠って生きる者の逃れの町はキリストである。
人は無垢な赤子として生まれたようであっても、誰に習わなくても妬んたり、苛立ったり、他を押しのける我が儘を覚えて行き、ついには滅びの死に至らせるのである。

それは神に背いたアダムの血にあって、人が日々に意図せぬ罪によることであり、パウロは善を望みながら犯してしまう罪の存在は、人の力では制御出来ないものであること告白している。

 

私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。(ローマ7:20)

 

それらと戦って善を行う教育を受けても、罪の性質はより深い心の奥底に根を張るばかりで、努力しても完全な善を行って罪を根絶することなど、誰一人として出来ないのだ。

 

次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。
悟る者はいない。神を求める者はいない。
すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。
善を行う者はいない。だれ一人いない。」(ローマ3:10~12)

 

心に根付いている罪の性質と戦って完全になるために、神に救いを求める者はいない。それは人の思いもつかないことだからである。ただ、罪がもたらせる結果に気付いて行き詰ったときに、救いを求めて神を思い出すのである。

 

クリスチャンになると、それまで上手く取り繕って「人間だから大なり小なり似たようなもの」とやり過ごして来た罪々が、わらわらと現れて罪の記憶に悩むようになる。みことばの光りの中で、初めて神の義と聖の基準に出会うからである。

 

その時、罪をあがなう神の備であるキリストの十字架という、逃れの町を知るのだ。贖い主キリストのうちに身を避けて、人が経験したことのない安らぎを体験するのである。
過去、現在、未来の罪が赦されている事実を、みことばを解き明かす聖霊の助けの中で、責められることの無い神の平和を味わうのである。

 

わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。(イザヤ43:25)

 

創造主の御許に帰る日まで、キリストのうちに留まって安息を得る此処には、絶えず訴えて責めるサタンが立ち入ることは許されない。彼は神の許可なくしては何も出来ないからである。

それに訴えるべき罪は、キリストの死とみがえりに拠って完済されてあり、神の子、聖なる祭司とすべてが新しくなってしまったからである。

 

終わりなき罪に追われているのはサタンや悪霊どもであり、彼らの中に在って未だ罪を清算することのない人々の方である。
それゆえ先に救われた者は人生を掛けて、主に選ばれてある人々の救出のために、キリストを知らせ続けることを命じられている。

 

逃れの町での生き方は過去の罪に怯える日々ではなく、キリストの平安の中に安らいで、天地創造の神を喜び、一日一日をみ旨に従って生きる場所である。
そうして罪に悩む人々に「キリストの御救いに与って、裁かれることのない永遠のいのちを頂こう」と呼びかけているのである。

 

死んだ者の命の値を、殺した者に請求することは正当なことでもあり、命には命をもってあがなうことは正義でも在る。しかし、罪の命さえも生かすことは主のみこころなのである。

それが出来るのは、人の負いきれない過ちや罪をのために、途方もなく高額な神のキリストの命が支払われたからである。


キリストこそが全人類の逃れ場であって、主によって贖われない失敗や罪は無い。人類の最大の罪は、造り主である神を無視して生きることであるが、主がその罪をも十字架の血潮をもってあがなってくださったのである。

それゆえキリストによる罪の贖いを信じた者は、もう神に受け入れられているのである。

 

これが、父なる神が用意してくださった人類への愛のかたちである。神は人が過ちを犯す者であり、失敗の中に在る者であることを予めご存じで、アダムが罪を知った時に愛する御子のうちに計画してくださった、罪の結果の死を打ち破る救いなのである。

 

意図しても、意図しなくても失われた命の価値が変わることはないが、神は復讐をしなくても良いように、キリストによる慰めを準備してくださったのである。
神も愛する者を失う命の悲しみを、罪を負った御子イエスを十字架に見捨てられて、激しい痛みや悲しみを経験して下さったのである。

 

「これは私の愛する子」と言われた御子を無残な十字架刑にたまわって、人は罪の結果である永遠に続く裁きの火から救われたのだ。この神の愛を知らなければ、愛する者を失った家族にはどんな慰めも救いも無いのである。

 

仮に復讐が成功しても何の慰めになるであろう。愛する者は帰って来ないのである。
しかし失われた命が、ひとり子をたまわるほどの神の愛の中にあって、痛みも悲しみも神に覚えられていることを知る時、すべてを委ねて安らぐことが出来るのだ。

 

死はすべての生きるもののゴールである。人は多くのことを忘れるけれど死ぬことを忘れる人はいないのは、神の警告によることである。


しかし、漫然と日々のことに心を占められていのちを救うための時を失って行くのは、自分と同じ滅びに引き込もうとするサタンの目くらましであり、今日と言う日、今と言う時は、永遠のいのちをたまわる神の備えである。

「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)


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