兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。
主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。(1~2)
携挙の日を前もって知る必要が無いとパウロは言っている。それを予め知ることは、日々に親しいお交わりを、主に求めつつ生きるには邪魔だからである。
時々刻々と備えられる、細やかなお恵みを味わって行くことが出来なくなるだろうから。
しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。(4~5)
いつも主と共に在る限り、その時は目の前に差し出されたプレゼントを受け取るように、御声に反応して飛び立つのだ。それは、明日であっても、数年後であっても同じ瞬間である。私たちの備えは、すべて時をみことばの中に生きているだけである。
いつも主を喜んでおり、霊にあって絶えず祈っていて、すべての事の中で主に感謝して生きているからである。
ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。(6)
キリスト者に「眠っていないで」と言われている。消極的な信仰ではなく、絶えず主を求める熱心に拠らなければ、信仰はすぐに眠ってしまうのだ。その眠りとは、世に倣って主の時間が持ち去られることである。
眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのです。(7)
光は昼にあり、闇は夜にある。うちに闇がないキリスト者は昼の者。私たちのうちに居られる方が光だからである。かっての闇は、キリストの光に敗北して去ったのだ。
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:5)
キリスト者に「眠っている」と言われたら、それは霊が眠っていることである。御救いに与って、死んでいた霊が生かされた者が、再び眠った状態になることはあってはならないことである。
そのために、祈りとみことばと霊の交わりを絶やしてはならない。「絶えず祈りなさい」とは、キリスト者がこの世の闇に飲み込まれないためである。
しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。(8)
信仰も愛もキリストである。昼の者である私たちは、キリストによってそのすべてを持っている。信頼して、日々聴いているみことばに従順する時、キリストが現れてくださる。
救いのかぶとをかぶっているから、どんなことにも従順することが出来るのだ。それがすべての時に守っていてくださるからである。
神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。
主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。(9~10)
昼の子どもはからだが眠っている間も、霊は主と共に在って光の中で御声を聴いている。携挙が夜の眠りの間であっても、私たちを呼ぶ御声は真っ直ぐに届いて、私たちの霊は主の元に飛び立つのである。
油を用意して花婿を待っていた5人の娘たちも眠っていた。聖霊に在れば、油があれば、何時でも昼の子どもなのである。
いつまでも、いつまでも愛する主とともに生きる者である。