私たちは神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことを聞き、神から出ていない者は私たちの言うことを聞きません。それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けます。(6)
神から出たことばを話し、神によって成るわざを行う使徒の働きは聖霊の導きであって、彼らのことばに聴き従う者に救いのわざが現れた。救いは人の熱心や言葉の巧みさには拠らず、神の選びに在る聖霊の働きである。
聖霊に触れられるとき、創造主なる神を悟り、御子イエスの十字架の救いを受け入れることができる。神の愛を経験した者は真理を悟り、イエスにすべての望みを置いて礼拝して、みことばに従順する彼らは、聖霊に解かれたみことばに拠って偽りの霊を見分ける。
愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。(7~8)
神の御愛を経験することによって、初めて神がどのようなお方であるか知る。神を知らない者は真実な愛を知ることは無く、そのように愛することも出来ない。愛の神によって経験したことは、罪に汚れた者に神のひとり子の命をたまわる愛であった。
それほどの愛を受けたことを知るゆえに、キリスト者もまた自分の命を捧げるほどに主の兄弟を愛することを求められている。
しかし、此処には未だ肉を着ている身の呻きがある。主にどれほどに愛されたかを知りながらも、その心は愛せない理由を告発するからである。
ただキリストの愛がうちから溢れ出て、自分自身を忘れてみこころを行うことが出来るようにと、キリストを求めひれ伏すのである。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。(9)
罪ゆえに死んで永遠の滅びに行くべき者を、それも未だイエスを主と礼拝することもなく、創造主を認めることもなかった者のために、まず、御子の命をもって罪をあがなってくださった神。キリスト者はこの愛の中に、ただ信仰によって迎え入れられ、すでに永遠のいのちの中に生きている。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(10)
今も天地創造の神を知らずに生きる人々に、神は救いの計画を完了してキリストに来る人を待っていてくださる。
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)
世に生きていて疲れてない者も、重荷を負っていない者も居ない。世ではすべての人は生きることに疲れを覚えている。弱い肉を纏っている命をまっとうすることは簡単ではないからである。
永遠を準備してくださった神は、一人ひとりに良い計画を持って造ってくださった。それは神は良い方だからである。主に信頼する者には聖霊によって交わりに招き、最善に導いてくださる。
天に永遠の住まいを備えることが出来る方は、地の必要も備えていてくださるからである。
イスラエルの民がエジプトを脱出したとき、何もない荒野を彷徨う40年間を養い、子孫を生み育てさせた神である。神のご真実は永遠に変わることは無い。
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。(11)
互いに愛し合う愛はキリストから出た愛であり、私たちがキリストのうちにあって受ける愛である。その愛の形は様々であり、主が満たしてくださるものによって可能となる。その中でも祈りに勝る愛がないのは、祈りを聞いていてくださる主はご真実だからである。
また、何も持っていなくても許しの中で、祝福を祈り愛することはすぐに出来ることである。人は誰でも、許されなければならないものを持っているからである。
いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。(12~13)
御救いは、父なる神の計画によって、御子イエスの命に拠るあがないをたまわり、御霊による信仰生活の導きによって完成される。
すべては三位一体の神の助けに拠ることである。聖霊の助けを求めないことは思い上がりである。
サタンの最後のあがきは、聖霊の働きについてキリスト者を混乱させ、関係を妨げることである。それは彼らが持ち込んだ賢さを用いて、人の理解にある知的でスマートな宣教を誇らせる。
聖霊はみことばに聴くことを導き、理解できないことにも従順を求め、待つことを導く、そのような聖霊は力ある人には邪魔なのである。それは、三位一体の神により頼むことであり、誤りなくみこころを行うための備えなのだが・・。
神は霊でありみこころは霊によって知ることである。聖霊により頼む訓練を受けていないと、救われても成すべきことを知らず、キリストを生きる備えも無いままに、救いの確信を得られず、人に聞き続けることになる。
神の子とされたキリスト者の必要は、三位一体の神がすべてを準備してくださり、みこころに導いて事を成し遂げさせ、主を喜び楽しむ者としてくださっている。
イエスが私たちの必要をご存じで神に願ってくださった聖霊は、キリスト者として生きることを助け導いてくださるお方である。
わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。(ヨハネ14:16)