
診察室に入るなり、「ずいぶん小さくなっていますね。こんなことがあるのですね・・。」「疑うわけではないのですが、まだ諸手を挙げて喜べないのです。」
「どうしましょう・・三ヶ月後にもう一度CTを撮って、それで変化がなかったら信じることにしましょう。」医師は戸惑いの言葉を並べておられた。
私は「よかった!」そればかり・・。主人は・・言葉がなかった。
今日が山場だと思っていた。先日の血液内科で頂いた結果は嬉しかったのだけれど、もう一つ今日の消化器内科の方が残って居た。
血液内科の結論が出たということで、今日から治療のための計画が示されるのではないか・・と実は恐れてもいた。
2種類の癌が同時に、それも「ずいぶん」と言われるほど良くなっているなんて私たちは知らなかった・・。
「良かった」と・・診察室を出た直後、私の中にワァーッと自分の不信仰に対する恐れが広がった。ドッと後悔がやってきた。
主人は、「なんで・・」と戸惑っている。「イエスさまによってだね」と言ったら、「それでも、俺はまだ信じられへんのに・・」
ああ、やっぱり夫婦は同じ事を感じるんだと思った。ともに不信仰を恐れていた。
「私だって同じ、大丈夫っていくら言っていても心配をして恐れていたよ。人間なんて誰もイエスさまを100パーセント信じることなんて出来ないと思う・・。イエスさまはそんなことを百も承知で、私たちを憐れんでくださったのだと思うよ。」
「ああ、それなら良くわかる。それで安心した。」主人のホッが伝わってきた。
そう、受ける資格もない者が、一方的な恵みを受ける時畏れ多さに身のすくむもの。

信仰の報酬ではない、神様の憐れみのありがたさ!
イエスさまは十字架で、私たちの不信仰の罪をすでにあがなってくださった。だから、不信仰を持った自分をそのままに御前にひれ伏し、ご真実な主の憐れみにすがるのだ。
ではでは・・どういうことになるのだろう。鶴は千年、亀は万年、主人は百万年生きるのか・・これは悪い冗談。
主のストーリーに従って生きるだけ。この身に主のストーリーが成るとき、それがどんなことであっても「ハレルヤ!」なんだ。
ある時は癒しであり、ある時は病そのものかも知れない・・でも、そのすべての過程に、主の御手をリアルに感じることこそがキリスト者の喜び!
今夜は主人とささやかな乾杯~をした。
「喜びをも 悲しみをも 満たしたもうままにぞ受けん」