それはⅠ列王記13章、ひとりの神の人がヤロブアム王に預言をすることから始まる箇所で、彼は王の食事の誘いには主に命じられたとおりに断ったけれども、
「私もあなたと同じく預言者です。御使いが主の命令を受けて、私に『その人をあなたの家に連れ帰り、パンを食べさせ、水を飲ませよ。』と言って命じました。」
と言う年寄りの預言者の言葉には騙されて、帰り道で獅子に殺されたという箇所。
神の人は自分自身に語られた神の言葉よりも、年寄りの預言者の語る言葉に聞き従って、主の命令に背くことになって命を落とす。
「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、・・その教えは真理であって偽りではありません。・・また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」(Ⅰヨハネ2:27)
昨年から絶えずこのみことばが私にありまた思い出した。もちろんキリストに留まっているのは、イエスさまの十字架を通って救われた、現在の私たちならこそなのだけれど・・。
権威のありそうな年寄りの言葉。それに引き替え彼は自分自身を頼りなく思うことも多く、自分で聞いた主の言葉への確信が揺らいだのだろうと思う。
此処で、「その教えは真理であって偽りではありません。」この言葉に居ることの大切さを思った。
「みことばを守り王様の誘いも断って、すでに誘惑にも打ち勝ったのだから仕事は終わった。神様は預言者を通して、ご褒美をくださるのかなぁ・・。」そんな思いだったのかな?しかし彼は直接聞いた言葉に留まり続けるべきだった。
主が私たちの霊に教えられた教えに留まり続けるには、日々の主との信頼関係、近しい関係でいることが絶対に必要であって、その上でこそタイミング良くやってくる世の権威による、おいしそうな誘惑から身を守ることができるのだと思う。
あきらかに信仰の違う者によって誘惑されることはないけれども、同じ信仰を持っているなど身近な人であるほど、それも微妙に違う事柄に対してみことばに立ち続けることはとても難しい。
それは「頑な」という自分自身からの非難に耐えなければならないし、拒絶はその事柄に対してだけなのだけれど、相手を拒絶していると誤解されることさえ覚悟しなければならないのだから。
でも、主がみことばを託して下さることはなんと栄誉なことだろう。何と引き替えても、主の十字架を経て救われた身には感謝でしかない!
主が私たちをかたくみことばに留まらせて下さいますようにと願う。
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