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From Classics to Today's Hits

『猫と運命とジャズの午後』

2025-07-02 20:38:12 | 大西好祐
ある午後、僕は下北沢の静かなカフェでアイスコーヒーを飲んでいた。壁にはコルトレーンのレコードが回っていて、気温は27度、湿度は高かったが風は悪くなかった。店の隅には灰色の猫が寝そべっていて、ときどき尻尾だけをぴくりと動かした。
「運命って、最初から決まってると思う?」
と、向かいに座っていた彼女が訊いた。
彼女の声にはいつも、余白がある。まるでページの左下にぽつんと置かれた脚注みたいな。僕は少し考えて、ストローの氷を口に含んでから、こう答えた。
「うん。たぶん決まってる。だけど、ラジオのチューニングみたいに、ちょっとずつズレることもある。ほんの少し、ほんの気まぐれで」
彼女はうなずいた。「じゃあ、私が今ここでコーヒーを床にこぼしたら、それも運命の一部?」
「それとも、偶然か?」と僕は言った。
彼女は実際にコーヒーをこぼした。音楽は止まらなかったし、猫も驚かなかった。ただ氷がテーブルを滑って、床でひとつ、悲しげな音を立てた。
「ほらね、なんだって起きるのよ。運命がどうだって、午後の光は変わらない」
彼女はそう言って、濡れたテーブルに指で“∞”のマークを描いた。
もしかすると、僕たちは既に誰かの小説の中に生きているのかもしれない。作者はまだ結末を決めていないけれど、登場人物が勝手に動き出した瞬間、運命なんてものはただのフレームに過ぎなくなる。そんな気がした。
外では誰かが犬を散歩させていて、ジャズのサックスはそのまま午後を貫いていた。