カラダを科学する本格的整体ブログ

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手技療法の根本原理(1)

2014-03-06 18:13:32 | Weblog

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ご無沙汰してしまいました。団体の仕事におわれ、なかなか更新することができないまま時が過ぎてしまいました。はや3月にはいってしましましたが、今年は定期的な更新を心がけていきたいと思います。

少し古い本ですが、高橋 晄正という方がまとめた『漢方の認識』(NHKブックス 1969)という本のなかで、木下晴都氏の研究として、6人の鍼灸師が12名のクライアントに対して目隠しをして二度の脈状診をしてもらったところ、同じクライアントに対する二度の診断の一致した割合は、それぞれ75%、67%、42%、33%、17%、8%であったという例を紹介しています。

説明を補うと、鍼灸師の方が目隠しをして12名の人を見たときに、少ない人で3名、多い人では11名分の診断が一回目と二回目で異なってしまったということです。

報告では、さらに比較的割合の高かった上位3名(75%、67%、42%)の診断の異同を検証したところ、3人が一致した診断にいたったのはわずかに2例であったことを報告しています。これは診断の客観性に疑いを挟ませる重要な事実です。

たとえば血圧計で計測するとき、幾度も計測すると一回一回の数値には必ず違いが出るはずです。これは生命現象のゆらぎといわれる問題です。ときには緊張したり寒気を感じたちすれば、思いのほか大きな変動が生ずることがあるでしょう。

このことは、いうまでもありませんが「血圧を計測しても意味がない」ということを示しているのではありません。血圧の些細な数値の変動を気にかけても仕方がない(無視してもよい)ということを意味しているのです。

ここで問題となるのは『手』を使って、いったい何を明らかにしようとするのかということです。『手』の役割をよく理解し、適切にコントロールしていくことが重要なのです。

たとえば整形外科ではゴニオメーター(関節角度計)を用いて関節可動性の計測をおこないます。その際、手を用いることの問題として、「検査者内信頼性」、「検査者間信頼性」ということがよく検討されています。

実際に、手でゴニオメーターを操作して計測すると、測るたびに結果が違ってしまうのです。同じ検査者自身の計測においても差が出るし、異なる検査者間ではもっと大きな差が出る。誰が考えても容易に想像のつくことです。では、これをどう考えるかということなのです。

このブログでは、手技療法とはなにか、どのような効用が期待されるのかについて、客観性というものを軸にお伝えしたいと思っています。その際、手にどのような役割を持たせるのかということがとても重要です。

そして、なぜ手を用いなければならないかについて、明晰な根拠を明らかにしてゆくことが大切だと考えています。なぜなら手技療法というものは、『手』の能力をはなれては成り立たないからです。

そのことは、手技療法の意義を理解していただくためにも、手技療法の可能性を伸ばしてゆく上での重要だと考えています。

わたしたちが用いている『手』は、じつはたんに手首から先の部位をさしているのではありません。手は、神経によって脳につながれています。また腕や肩を通じて体幹、さらには骨盤や足を通じて地面につながっています。

手で感じたことは、すべて脳に送られ、連続的に処理されます。連続的というのは、たとえば血圧計のように、ある特定の瞬間のデータを記録するだけではなく、手で触れているすべての時間、さらに手を動かせばそれに伴って変動してゆすべての時間のデータをキャッチし、たんに記録するのではなく、その変化をとらえ即座に直感としてもどしてくれているのです。

それだけではありません。手は、たんに感覚するだけでなく、押したり引いたり握ったりしたときの反動を、手首から腕、体幹、さらには足を伝わって地面にいたる力の流れ(バランスの変化)としてキャッチし、即座に全身の運動能力を発動させるととのもに、経験と照合し、その物質イメージをもどしてくれます。

さらに、このすべての能力が学習機能をもっていて、経験を集積するにつれ、より組織的な情報処理能力へと新生されてゆくのです。

あえてそのように申し上げるのは、これまでわたしの知る、限り手技療法についての記事は、経験とか効果のアッピールについてのものが多く、上のような問題がほとんど無視されてきたからです。

そのそも科学は徹底的に「主観性」を排除することによって成り立ってきました。近代科学に哲学的な基礎をあたえたルネ・デカルト(1596~1650)は、『方法序説』のなかに、主観的な印象は夢なのかうつつなのかの区別がつかないし、確かだと思ったことが思い違いであったり、およそ頼りにならないと記しています。

しかし手技療法における『手』は、機械と違い、人それぞれの「主観性」抜きには働きません。このことが、一般的な科学の土俵に乗せにくい手技療法の弱点となってきたのです。

実際に手技療法は、『手』の背後にある「主観性」を排除できないと不完全な存在ではありません。むしろ「主観性」を徹底的に鍛え、まさしく職人の域にまで高めていかなければならない『技』の基盤なのです。

つまり、たんにマニュアル的に『手』を使っていたのでは手技療法の『手』にはならないのです。

デカルトが排除しようとした「主観性」とは、別の言い方をすると心理学的な意味での自我です。

しかし、手技療法の根拠にある「主観性」は、そのような意味での心理学的な自我とは違います。あえて言葉にするなら、自我を滅却して対象と合一する、西田哲学にいう「純粋経験」の域に属することなのです。

日本は、明治以来、和魂洋才で近代科学の技術の導入に突き進みながら、近代科学のもとになる科学的精神については、ほとんど理解することを拒んできました。

このことが、結局は手による経験を高めてゆく上で、大きな障害になりつつあるというのがわたしの考えていることです。

人の健康をめぐる環境が変化し、手技療法の持つ意義、とくに手でなければできない人間の健康に対する効用について、もっとしっかりした議論が求められると思うのです。

次回は、このことをより具体的に紹介してみたいと思います。
(つづく)
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