カラダを科学する本格的整体ブログ

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手技療法の基本原理(5)

2015-08-03 18:31:47 | Weblog

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だいぶ間隔が空いてしましましたが、このたびは手技療法の理論化という課題に一歩踏み込んで考えてみます。

 計測と観察事実

手技療法の世界は成熟した理論が生まれにくい世界です。手の感覚にこだわりをもって見なければ捉えられないことがたくさんあるからです。手の感覚と科学との相性がとても悪いことはいうまでもありません。たとえばボアン・カレは次のように述べています。 

我々には力がなんであるかはすっかりわかっている。我々はそれについて直接の直観を持っている。この直観は筋肉の収縮から生じた概念で我々が幼児からなれているものである。しかしまず仮にこの直観が力それ自身の真の本性を我々に知らしめるとしても、それは力学の基礎とするには不十分であろう。しかも全く役に立たないであろう。重要なのは力がなんであるかを知ることではなく、力の測り方を知ることである。力の測り方を教えないものはすべて力学の研究に役立たないことは、たとえば熱を研究する物理学者にとって主観的な熱い冷たいという概念が役に立たないのと同様である。この主観的な概念は数に翻訳することができない。だから少しも役に立たない

(ポアン・カレ『科学と仮説』1902 岩波文庫版第48刷2013 135p.)

 ボアン・カレ(1854~1912)はトポロジー(位相幾何学)を確立した数学者であり、ポアンカレ予測でも有名ですが、天文学、物理学者としても多くの成果を挙げた人です。量子力学が成立する前の時代の人であり、ラッセル、ヴィトゲンシュタイン、ゲーデルらに比べるとわずかですが前時代の人です。科学哲学については規約主義の立場から多くの考察をおこないました。

 ポアン・カレは、主観的なものはそれ自体では役に立たないこと、いかに計測するかということが問題であると主張しています。 

一方で、科学の全体系を見渡した時に、「力」とか「エネルギー」のように、直接計測することのできないものが中心概念として普遍性・客観性を与えられています。規約主義とは、概念というものを一つの規約(取り決め)と捉えようという立場です。たとえば「質料とは計算に導入すると便利な係数である」(同133p.)というように。

たとえばリンゴが木から落ちるのは、地球がリンゴに「力」を加えた結果です。リンゴに生じた加速度(重力加速度)は、地球の与えた「力」の作用であり、リンゴに与えられた作用と反作用はと等しいと考えます。両者が等しくなるのは、エネルギーが保存されるという法則によります。

この一連の説明のなかで、実際に計測できるのは、リンゴの重さ、時間、距離(リンゴの落下した距離)です。加速度は時間と距離から求めるしかありません。「力」は質料×加速度によって与えられる概念です。「力」は他のものに作用を与えることができるわけですが、それは加速度という方であらわれるのでなければなりません。

すると、この記述には直接計測できない「概念」が大きな役割をはたしているのがわかります。計測はできませんが、これらの概念は計測結果と完全に符合しており、一連の現象を矛盾なく説明することができます。ポアン・カレのいう規約主義とは、「力」「エネルギー」といったものは、計測結果と矛盾しない規約であると考えればよいという立場です。

概念化、理論化という行為

今日の完成された物質科学は実証主義に基づいているといわれます。これは、どのような定義や命題も経験可能な観察事実へとさかのぼって確認することができることを意味します。わたしたちは、追試によってこの観察事実を確認することもできます。

しかし、単に観察事実の集積だけで物質科学が完結しているわけではありません。概念化、概念相互の関係についての認識がとても重要な役割をはたしています。計測という行為は、主観性と客観性が橋渡しする重要な意味を持っているのですが、そこで求めらているのは個別の「事実」ではなく、普遍的な「概念」なのです。結果的にわたしたちの知りうる客観的世界は、計測技術に制約されることになります。

たとえば古典物理学のなかでは化学反応の前後で質量は変化しないとされていました(質料保存の法則)。しかし、量子力学のなかでは成り立ちません。保存されるのはエネルギー(E=mc²)であり、質量はわずかにせよ変化します。ラボアジュは念入りな計量によって化学反応の前後で物質の質量が変化しないことを証明したとされます。当時の計測技術ではこのことが表面化することがなかったのです。

手技療法が手による主観的な計測を重視するということは、主観的なものすべて肯定するのではなく、客観的な世界把握の限界を捉えたうえで、その不足を補うために意識的に主観的な能力を活用することです。むろんそのような主観的な観察に再現性がなければなりません。計測という行為がどのように制約されているかということについて掘り下げて考えることが必要になります。これについては、次々回にでもまとめられればと思っています。

さて、科学的世界把握のためには、観察事実を生み出す計測方法だけでなく、「事実」と「概念」の関係についても理解しておかなければなりません。科学のなかにはさまざまな概念があります。わたしたちが体験できるのは「事実」であって、これは「重さ」「長さ」「距離」「時間」など、具体的に計測できるものです。

「力」「エネルギー」という言葉が意味するものは「概念」であって、わたしたちは直接「力」や「エネルギー」を計測する手段を持ちません。

両者の関係は論理学的なものです。たとえばわたしたちは、「ポチ」とか、「ハチ」という固有の名前で呼ばれるイヌに接することはできますが、「犬」という概念そのものを体験することはできません。「犬」という概念は、普遍性をもち無限というものを含んでいます。集合概念なのです。

今日の客観的な世界像(物質科学)は、膨大な数の経験的な観察事実にもとづいて構築されているのですが、たんに事実を寄せ集めることによってできてるのではなく、いま紹介した「概念化」に見られるように、論理的数学的な体系化を通じて構築されています。

論理的数学的な体系化とはどういうことなのか、たとえばノーム・チョムスキーは言語学について次のように述べています。

厳密な定式化の追求には、単に論理的精密さに注意を払うことや、既に確立されている言語分析の諸々の方法を洗練するよりも遥かに重要な動機が存在する。…精密だが妥当でない定式化は、受け容れがたい結論にまでそれを推し進めてみると、その定式が妥当でない正確な原因が明らかになることが多く、結果として、当該の言語データに対するより深い理解が得られるのである。…不明瞭で直観に捕らわれた概念は、不合理な結論を導くわけでもなく、また、新しく正しい結論をもたらすわけでもない。

(ノーム・チョムスキー『統語構造論』1957 岩波文庫版2014 7~8p.)

実証科学において、さまざまな観察事実をまえに、「どのように概念化するか」、「概念間の関係をどのように位置づけるか」という問題が必然的に発生してきますが、厳密な定式化を進め、その定式を極限まで推し進めてみないと、概念化の妥当性、あるいは概念間の関係の妥当性も明らかにすることができません。ノーム・チョムスキーはそのことを言っているのです。

逆にいえば、生産性のない学問分野というのは、なまくらな概念をなまくらに構築して、ぼんやりした知識めいたものを得、矛盾もなければ批判もでない水準に甘んじているということができます。

このような「知識」はふるいにかけることができません。淘汰もされないかわりに当てにもされないし、発展性もなければ他分野との競合も生まれないのです。手技療法の世界は、まさにこういった状況です。

たとえばさまざなまノウハウが数多く語られています。さまざまな場面にあわせてノウハウを細分化して展開すると意見するとあたかも理論的な体裁をとっているように見えます。 

しかし、ノウハウと理論は別個のものです。理論化するということは本質的に無限という概念を含んていなければなりません。極限まで推し進めた時にどのようなことが起こるか、「○○という現象が伴ってくるはずである」、「○○という現象を満たさないと成り立たないはずである」といった随伴する問題が見えてこなければなりません。 

実際にこのことを検証してみると、定式化の不完全さが明らかになることがほとんどでしょう。そのことに耐えながら、問題点を修正していかなければなりません。あるときには目的としていたこととは全く異なる発見が生まれることもあるでしょう。

ノーム・チョムスキーが厳格な定式化に期待されることというのは、このことを指しています。ノウハウというものは、個人の主観的な問題解決の集積です。そこには、無限という概念、極限という概念が介在することがありません。同時に、自己撞着や自己憐憫が淘汰される厳格さも生まれようがありません。

無限という概念、極限という概念が介在しないということは、それは「不明瞭で直観に捕らわれた概念」(ノーム・チョムスキー)であり、「数に翻訳することができない。だから少しも役に立たない」(ポアン・カレ)ものなのです。

ここで問題としようとしている「主観性」とは、いまいったような問題を乗り越え決別したところで生まれる「主観性」です。でなければ、現在の実証科学の限界を超えるものとしての「主観性」を考える意味はないのです。そこで、わたしたちは、改めて実証科学を基礎づけている論理学や数学の「論証」という行為のなかに立ち入ってみることが必要になります。

なぜなら理論化、定式化という行為は、観察されなければならない事実、観察されなければ即座に矛盾となってはなかえってくる現象を提示するものだからです。たんに「観察事実」を集積するだけでは、理論が生まれるわけではありません。むしろ理論化、定式化ということが、「事実」と深く関わるための重要な鍵になっているのです。

ヒルベルトの形式主義

理論化、定式化という行為を考えるうえで数学についての理解は重要な意味を持ちます。ここで、わたしたちが考えなければならないのはもう少し限定していえばヒルベルの形式主義と言い換えてもよいでしょう。

ヒルベルトの形式主義は、現代数学を基礎づけている基本原理です。多くの人が高等学校の数学で学ぶカリキュラムはヒルベルト形式主義に基づいていますで。決して縁遠いものではないのです。

集合からはじまって、三角関数、行列、二次方程式の解公式から虚数、微積分、高次方程式へ連なる高校数学の一連の流れです。数学の用語にしたがえば、数学基礎論、代数学、解析学、幾何学、応用数学となります。

これらの数学はそもそも別個の時代に独立に発展してきました。これらが一連の論理的な関連性をもった統一的な体系性であることを明らかにしたのがダビッと・ヒルベルトです。ヒルベルトは20世紀初頭の代数学者で、現代数学の基礎づけに大きな役割をはたしました。前回紹介したゲーデルの不完全定理は、このヒルベルトの形式主義が不完全なものに終わることを証明したものです。

さてヒルベルトの形式主義の成り立ちを象徴的に表す出来事として、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学とを統合したフェリックス・クライン(1849~1925)のエルランゲン・プログラム(1872)があります。

 このエルランゲン・プログラム(1872)はヒルベルトの形式主義に基本アイデアを提供するものでした。事実、ヒルベルトの形式主義はまず幾何学からスタートし大きな成功を収めました(『幾何学基礎論』1899 ちくま学芸文庫版2005)。

 しかし、数論、解析学へと進むにつれてさまざまな困難が生じてくることになるのですが、集合論や記号論理学に連なる19〜20世紀初期ころの理論化、定式化についての議論の見通しをうるためにはわかりやすい入り口となるように思われます。

 今日、完成された客観的な科学の成果に目を奪われていると、客観的な世界の基礎づけがどのようにおこなわれているかということが見失われてしまいがちですが、主観性と客観性の関係のような科学の基礎に関わる問題を考察するためには、このことがとても重要になります。

 というのは、量子力学のように数学の比重がますます大きくなりつつ分野がある一方で、逆に数学では解けない問題というものについても理解しておくことが必要になるからです。その代表的なものが運動です。

ここでは中学校で学ぶユークリッド幾何学のことを少しおさらいをして次回につなげたいと思います。

ユークリッド幾何学は、ある直線の外部にある一点を通る平行線が一本しかないという公理にそって成り立つ空間の幾何学です。

図中、同じ記号をふった角度はそれぞれ等しくなります。二直角の交点にできる対頂角は等しく、平行線と交差する直線とも間にできる同位角は互いに等しいことから、同じく錯角が等しくなります。

このことから三角形の内角の和がかならず180°になることが証明されます。このような三角形についての知見が、ユークリッド幾何学を花開かせる大きな跳躍台となりました。

しかし、実際の地上では、三角形が大きくなると内角の和は180°よりも小さくなります。これ地球の表面が球面だからです。

数学史上の多くの人が平行線の公理の証明を試みましたが、結果的に平行線の公理をはずしても一定の体系的な幾何学が成り立つことが逆に証明されていきます。ガウス、ボヤイ、ロバチェフスキー、リーマンらの幾何学、いわゆる非ユークリッド幾何学です。

クラインのエルランゲン・プログラムは、これら異なる性質をもった幾何学を、より巨視的な観点に立って統合しようとするものでした。ヒルベルトはクラインの指導学生の一人でしたが、このことから数学的世界の基礎づけというものを、より徹底的に推し進めようとしたのです。

次回は、数学の基礎づけの問題について考えてみたいと思います。

(つづく)



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