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熊本から気ままに山と自転車のブログ

放牛石仏(地蔵)105・54・71・78・29・26体目

放牛石仏(地蔵)105・54・71・78・29・26体目
2021/11/17(水) 晴

今日は、正午過ぎまで家周りの事をして過ごしたが、暖かい気温と晴天誘われて午後3時前からポタリングに出る。
目的地は、放牛石仏(地蔵)6・105・54・71・78・7・29・26体目の予定で出かける。
立町の7体目は、到達できずに宿題となった。

先ず池田立岩神社近くの放牛石仏(地蔵)71・78体目を探訪する。が、所在が分からず往生院に移動する。
往生院の放牛石仏(地蔵)6体目を後にして、稗田観音堂境内に鎮座する放牛石仏(地蔵)105体目(写真5参照)に移動する。


放牛石仏(地蔵)105体目は、2体並んで鎮座する地蔵尊(写真6・7参照)の左側の方。


説明文(写真8参照)には、「約三百年前、細川綱利公のころ城下の鍛冶屋町に貧しい鍛冶職の親子が住んでいました。正月四日孝行息子は商いに出たものの、無類の酒好きの父のために酒を買ってやれるだけの売り上げが、その日はありませんでした。酒を楽しみに夕げの支度をしていた父は、酒のないのを知ると手にもっていた火吹き竹を門にたっている息子に投げつけました。竹は息子には当たらず、折悪しく表を通りかかった武士の眉間を割ってしまったからたまりません。父はその場で無礼討ちにされ、父の非業の死を目の当りに見た息子は、自分の不幸(孝?)が父を殺したと嘆き、出家して「放牛」と名を改めました。その後三十年間の修業の後、父のため福を祈って百体の石仏を祭ろうと発願し、享保七年(1722年)から熊本市・鹿本。菊地。阿蘇。宇土・上益城・玉名一帯に十年間で百七体の石仏を建立して、その大願を達成しました。」とある。


放牛石仏(地蔵)105体目を後にして、岩立小路バス停北に鎮座する放牛石仏(地蔵)54体目(写真9参照)に移動する。


放牛石仏(地蔵)54体目(写真10参照)の光背には、右側に「五十四体」頭上に「波阿弥陀仏」とある。


放牛石仏(地蔵)54体目を後にして、再度岩立神社に移動する。
放牛石仏(地蔵)71体目・78体目(写真11・12参照)は、神社参道入り口左角鎮座する。


放牛石仏(地蔵)71体目は、お顔がない。)78体目は蓮華座のみで上部に岩(写真13参照)が乗せてある。


放牛石仏(地蔵)105体目を後にして、立町に移動して放牛石仏(地蔵)7体目に探すが到達でない。
止むを得ないので子飼橋を渡り、刑務所通りに左折する手前の大江1丁目の放牛石仏(地蔵)29体目(写真14・15参照)に移動する。
ここも分かり辛かったが、立派な寺紋が見えたのでお訊ねしたところ、「放牛さん」だということで、敷地に入れて頂いた。


放牛石仏(地蔵)29体目を後にして、白川右岸堤防を遡り小関橋を渡り返し黒髪7丁目の放牛石仏(地蔵)26体目体目が鎮座する女瀬屋敷放牛観音堂(写真16参照)に移動する。


観音堂の中の右側の仏像は腰がくびれていて観音像と思うが、放牛石仏(地蔵)26体目(写真17参照)は、左側の石仏だが仏様の名前は分からない。
ここを最後にして、帰途に就く。


17時半前帰宅。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)13km→女瀬屋敷観音堂10km→熊本(自宅)
所要時間2.5時間(実2時間) 総計23km 走行累計43,982km

自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

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