2018/10/12(金) 晴
前回とは違って、今日の気温は低め。いきなり冬が来たのかと思えるほどの涼しさ。
今日は、午前中3時間ほどでの豊前街道探訪ポタリング。
場所は、明徳官軍墓地から往生院の間。
これで山鹿市までの豊前街道を走破したことになる。
220基の墓碑(写真1参照)があるという。
一基々々に戦死者の詳細が刻んである(写真2参照)
取り分け気になったのが死亡日と場所、本籍地の表記の文字。
この碑に人は、山口県の周防国とあり、4月2日に肥後国野々島村で死亡している。旧国名を記載しているのは、旧国名と新県名との間に地域概念の逆転が発生しているので誤解を防ぐためか?
死亡日・死亡地が戦闘日・戦闘地とは限らないが、一致しているとすれば、官軍は古代幹道も南下していることになる。
二子山古墳を訪れた時、薩軍が古墳を砲台にしたという説明板に、にわかには信じられなかったが本当のことの裏付けになる。
そういう意味では、資料的価値も高いと思う。
明徳官軍墓地
2017/12/25(月) 晴
西南戦争史跡探訪3回目。
行きは冷たい向かい風だが、昼からの晴天予報を期待してポタリングに出る。
先ずは、近場の北区明徳町官軍墓地(写真1参照)に立ち寄る。
説明板(写真2参照)には、「122基の墓石があり、政府軍の陸軍士官、下士、兵卒の墓石117基、軍夫5基。警視隊の墓石はない。
階級は士官2、下士17兵卒98。所属別では近衛兵第2連隊71基、次いで東京鎮台、熊本鎮台、広島鎮台と続く。
兵士の出身地は、南は熊本から北は山形まで全国に及んでいる。
戦死日、場所で最も多いのが明治10年3月20日、ここの近くの向坂一帯で、全体の7割以上の92名。
この日は田原坂が陥落した日で、勢いに乗った政府軍はは一気に熊本城まで攻め込もうとするが、向坂で薩摩軍の猛反撃にあって抜くことができず、多くの死傷者だし、潰乱して植木の町まで引く。
それから4月15日までの間、植木の町を南北に中分して、対峙した。
なお、近くの寄鶴には、軍夫30名の合葬墓がある。」とある。
ここに官軍墓地があることは知っていたが、これほどの戦闘が近くであったことを知らなかった!
私の生まれた里の集落のなかを、撤退する薩軍が通って行ったという話は聞いたことがあった。
そのとき、死んだ軍用馬を埋葬してくれと頼まれたということであったが、今考えると死んだ薩軍兵士の埋葬ではなかったかと思う。
勝てば官軍、負ければ賊軍、その賊軍に味方したと嫌疑をかけられては堪らない。
そこで軍馬を埋葬したことにしたのではないかと思う。
この辺りでは、官軍墓地は多いが七本の薩軍墓地以外には知らない。
自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。
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