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熊本から気ままに山と自転車のブログ

川尻延寿寺・西南戦争薩軍本営跡

西南戦争川尻延寿寺
2024/5/4(土)晴/曇

最高気温28°曇天の蒸し暑い日で出かけるのを躊躇っていたが、午後15時から3時間限定のポタリングに出る。
目的地は、西南戦争遺跡がある川尻の延寿寺とする。
熊鹿ロードを南に走ると、段山終点手前左側に石碑がある。銘文を見ると、「西南の役薩軍戦死者慰霊の塔」とある。今まで幾度となく通っているのに気づかなかった。

「段山古戦場跡」から石塘を通り、白川左岸沿いから新幹線側道を南下する。旧国道3から延寿寺に行く道の角に、「川尻電車終点跡」の碑(写真3参照)を見る。
銘文には、「川尻電車は、もともと熊本市河原町~川尻町間を走った民営電車で、大正十五年(1926)一月、まず熊本市世安町~岡町間が開通して営業をはじめました。
翌昭和二年(1927)十一月二十五日、河原町~川尻町間七・六キロが全線開通し、城南の要衝川尻町と熊本市との往来がたいへん便利になり住民の足として盛んに利用されました。
第二次世界大戦末期、昭和二十年十二月の市営化後も地域住民に重宝がられましたが、バスやマイカー利用の増加など交通体系の変化から、昭和四十年二月一日に廃止されました。
現在では、この地が川尻電車の終点であったことさえ分からないほど街は変わってしまいましたが、神社仏閣や伝統工芸品店など古い伝統を持ち続ける建物があちこちに残っており往時を忍ばせています。」とある。


川尻電車終点跡の碑から東に道を辿ると、道は左方向に曲がるその正面に延寿寺(写真4・5参照)はある。


山門右側に地蔵堂があり、左側に西南戦争の説明板(写真6・7・8参照)がある。
その説明文には、「薩軍野戦病院・戦没者埋葬地(延寿寺)。この寺は鎌倉時代はじめ川尻の荘の地頭となった河尻三郎実明が河尻家の祈祷所として建立した天台宗寺院であり、境内には豪潮律師が建立した宝篋印塔があります。
明治10年西南の役には西郷隆盛が軍隊を率いてこの地に入り、はじめこの寺に本営をおきました。2月21日、ここで薩軍は西郷をまじえた軍議を開き、熊本城強襲を決したということです。後にこの寺は、薩軍の兵站基地となり、野戦病院となりました。このため各地から薩軍の戦死傷者が運ばれ、戦病没者850余名がこの延寿寺に埋葬されました。当時その墓地を薩州墓と称していました。
後年薩軍戦没者の遺骨は、そのほとんどが遺族によって故郷に改葬され、その後この地には、三州会(薩摩・大隅・日向)により薩軍戦没者の慰霊碑が建立されました。以降毎年4月には碑前で慰霊祭が執り行われています。」とある。
もう一つの説明文には、「上田休の川尻鎮撫隊。上田休は旧藩時代の川尻町奉行でしたが、西南戦争で川尻が戦火にまきこまれると町民の困苦を見かね、川尻鎮撫隊を組織して町民の保護、治安維持にあたりました。
中立をまもって、薩軍からの募兵の依頼があっても断固拒否しました。戦後裁判では、敵に協力したという冤罪を受け死刑となりましたが、川尻町民には現在でも町を救った偉人として尊敬され、その徳を慕った町民の協力で熊本市横手の禅定寺に大領徳碑が建てられています。」とある。


境内左側に「西南役薩軍戦没者慰霊碑」「西南の役従軍戦没者延寿寺埋葬者名」が刻まれた碑(写真9・10参照)が建立されている。
銘文には、「熊本三州会の先人たちにより、大正五年墓碑が建立され、春風秋雨、国の行く末を案じ乍らも雄図空しく異境の地に戦い倒れた勇士達の悲運を悼み、その苦難の途を忍び、年毎に欠くる事なく行われた慰霊祭は、本年第百回を迎えた。
之を記念して、当初此処延寿の寺域に眠られた八百五拾余柱に満腔の至情を捧げ、その名を刻み後世に伝え御霊の永遠に安らかならん事を祈って銘碑を建立する。
春巡り延寿の庭に眠りいて、夜毎夢見む故郷の山・・・」とある。


本堂前右側には、豪潮式宝篋印塔(写真12参照)が建立されている。ここを折り返し点として帰途に就く。


18時に帰宅する。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)14km→延寿寺14km→熊本(自宅)
総所要時間3時間(実2.5時間) 総計28km 走行累計58,883km


川尻町泰養寺・薩軍本営
2018/9/18(火) 晴

熊本市郷土歴史研究家「勇智之」氏は、著書「人あり熊本城物語」のなかで川尻町に於ける薩軍本営は「泰養寺」であるとし、熊本市が指定している場所は間違いとしている。
そこで現地を見て、私なりに感じるものがないか訪ねてみることにした。
午後からではあったが、所用を一件済ませ川尻町に向かう。

その少し先に、今日の目的の「泰養寺」の山門(写真6参照)がある。
鐘楼も見える。
本陣はどちらかと考えた時、陣所は戦の指令所、敵に攻め込まれたとき戦闘態勢が取れる所は、敷地に余裕があるお寺ではないかと考えた。
勇智之氏は、「川尻町史が編纂された時、本営跡の石碑設置を泰養寺に断られ、編纂所が置かれた布屋前で記念写真を撮った」これが間違いの始まりと指摘している。
薩軍本営は、この後北岡神社、二本木と移動している。


その先のブロック塀が切れていたので、駐車場か?と覗いたら(写真7参照)、本堂の新しい基礎だけが白く見えた。
地震で被災されたのであろう。山門、鐘楼以外の建物は全てない。



西南戦争熊本戦跡
2018/1/2(火) 晴

交差点を渡り、石塘を南下し川尻町へ走る。
川尻4丁目交差点を右折し、酒造会社の前を通り西進すると右側に「川尻薩軍本営跡」(写真3参照)がある。
この建物は、国登録有形文化財今村家住宅でもある。


説明板(写真4参照)には、
「西郷隆盛ら明治政府に対する不平士族の最大かつ最後の内戦となったのが西南戦争です。
明治10年2月15日大雪の中、鹿児島を出発した薩軍は、2月20日先鋒隊が川尻に到着し、翌21日には西郷も到着しました。
西郷はこの地に宿営し、ここに『新政大総督、征伐大元帥西郷吉之助』の表札をかかげ、熊本城攻撃のための本陣を置きました。」とある。


船着き場の反対側の「川尻公会堂」の前には、「上田休と町奉行所跡」(写真10参照)の表示板がある。
「・・・薩軍が川尻に本営を置きます。上田は、住民の困苦を見かね、鎮撫隊を結成して治安維持に努めました。
その際、官軍・薩軍のどちらにも属せず、局外中立に徹し、住民を守りました。
しかし、この局外中立という考えは、理解されず薩軍に味方したという罪を着せられて官軍により死刑に処せられました。・・・」とある。


自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

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