見出し画像

熊本から気ままに山と自転車のブログ

菊池川堤防のハゼ並木・大原箱式石棺群

菊池川堤防のハゼ並木・大原箱式石棺群
2023/11/11(土)晴

最高気温予報20°晴天の秋日和、出発時の気温16°とひんやりと寒い。ウィンドブレーカーを羽織って午前10時からポタリングに出る。
目的地は、玉名市菊池川堤防のハゼ並木と、岱明町中土の大原箱式石棺群とする。

熊鹿ロードを北進し、県道31、国道208へと走る。木葉川沿いから菊池川展望道路とはしり、高瀬大橋を渡り、小島橋付近の国登録天然記念物の「菊池川堤防のハゼ並木」(写真1・2・3参照)に到着する。
今年のハゼの木は、夏の高温の所為か落葉してハゼの実だけになっている木が目立つ反面、冬日の到来の遅れもあって、紅葉が遅れて緑の葉の木もある。


説明板がある辺り(写真4参照)は、堤防下の公園の木も相まって紅葉している。


少し堤防を西進すると、川に石バネ(写真5参照)が見える。


ハゼ並木を後にして、菊池市指定文化財の「大原箱式石棺群」(写真6・7・8参照)に移動する。石棺群は、岱明防災コミュニティセンター敷地内に移設復元された文化財である。左右の端から石棺群全体を観る。


右側半分と説明板(写真9・10参照)を見る。
説明板には、「昭和42年および四十三年、玉名市岱明町野口字大原(当地から北東に約2.6キロメートル離れた地点)の畑地採土中に、弥生時代の遺構が確認されたため、発掘調査が行われた。
調査の結果、箱式石棺、竪穴住居跡、土器(壺、高坏、小容器)および鉄器(釘、斧、鎌、鏃、刀子)等が出土した。
そのうち破損の激しい第五号および第六号を除く箱式石棺十一基が当地移設復元された。
箱式石棺とは、数枚の板石で棺を作り、板石で蓋をしたもので、主として弥生時代から古墳時代に発達した遺骸を埋葬する施設である。
第一~四石棺 小型であり幼児用と思われる
第七石棺 古墳時代の男性と推測される人骨が出土
第八・十一・十二号石棺 長さ1.55~1.65㍍
第九号石棺 石枕、鉄製の鏃一本、板石に小舟と輝く星(または太陽)らしき線刻
第十号石棺 長さ約1.㍍
第十三号石棺 石枕、刀子一振、勾玉二個が出土
特に第九号石棺には、東側(出土時)の中央板石内側に小舟に乗り棹(舟を進ませる棒)を持つ人物および輝く星(または太陽)らしき線刻が認められるのは大変貴重である。」とある。


石棺群を後にして、近くの中土六地蔵石幢(写真11参照)に移動して拝する。ここを折り返し点として帰途に就く。


帰途の途中、疋野神社(写真12参照)のモミジの紅葉具合を見に立ち寄る。未だ紅葉には早かった。


帰路の途中、西に傾いた太陽の光を受けて、輝いている果樹園の柿の実(写真13参照)が美しい。


16時に帰宅する。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)30km→大原箱式石棺群32km→熊本(自宅)
総所要時間6時間(実5時間) 総計62km 走行累計57,223km

自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

コメント一覧

asotakadakedake1592
Re: katumoku10さんへ 早速の返信コメント有難うございます。
日置氏に「高麗系諸藩と土師氏系がある」とのこと、勉強になります。
以前のコメントで、「熊本は物部か?」で終わっていましたが、確証は掴めていませんが、そのようにも思えます。「継体天皇が物部麁鹿火に九州統治は任せる」との話もあり、六世紀になると熊本(特に菊池川流域)を中心に装飾古墳文化が隆盛期を迎えます。氷川流域では、野津古墳群に五基の前方後円墳が築造されます。これは岩井の乱の結果、熊本に富が集積される条件ができたたことによるものと考えます。自転車くま
katumoku10
おっしゃるとおり熊本は阿蘇山から採れる良質の凝灰岩が知られており大王の石棺を供給を供給していたことを森浩一さんが述べておられました(「日本の古代2」中央文庫1995年)。
古墳時代初頭の大国主の時代は熊本の豊富な資源を利用していたので当時の倭国の政治・文化の中心地と言ってもよいと思います。阿蘇山の南麓にストーンサークルや大国主関係の神社がありますね。
古代豪族日置氏(へきうじ)はwikiに高麗系諸藩と土師氏系とがあるようですが、前者は半島出身のように思われるかもしれませんが、高句麗の領土に居た倭人だと見ています。縄文時代中期の喜界カルデラ噴火で熊本から半島に渡った縄文人と江南の倭人との混血ではないかと思います。
後者の土師氏の祖は埴輪を作った野見宿禰で、その始祖は天穂日命とあります。この神様は国譲り神話に出てきますがスサノヲ・大国主の分身だと思っています。以前から気になっていますが、菅原道真の祖神が大国主を祀る神社の摂社によく見られます。
今回教えていただいた疋野神社の祭神を見ると土師氏系のようですね( ^)o(^ )
とても興味深いです。また、よろしくお願いいたします。
asotakadakedake1592
Re: katumoku10さんへ コメント有難うございます。
疋野神社は、菊池川流域から四国、中国、畿内地方へ石棺を搬送した日置氏一族の氏神様と認識しています。
「大王の石棺」は地方豪族から畿内の権力者への献上品というイメージですが、そんなにあちこちの権力者に献上しなければならない状況が理解できません。史実はその逆で、権力・文化の中心が肥後地域にあってその伝播の一つとしての石棺の搬送ではなかったかと考えます。ご意見拝聴できれば幸いです。自転車くま
asotakadakedake1592
Re:FUSAさんへ コメント有難うございます。
母上様は、大浜の御出身でいらっしましたか。遠くの実家へ帰省される心情を御推察いたします。「母に手を引かれ歩いた」情景が目に浮かびます。
私も、今は廃線になった鹿本鉄道の線路敷きを「母に手を引かれ歩き」保線員の人に大声で怒鳴られた、その情景だけが思い出されます。いくつになっても母親への思いは変わりませんね!自転車くま
katumoku10
いつも貴重な情報をありがとうございます。
疋野神社をネットで調べたら、
主祭神 - 波比岐神(はいきのかみ、はひきのかみ)、製鉄の神
配祀神 - 大年神(おおとしのかみ)、五穀豊穣の神
とありました。境内には猿田彦の石碑があるようですから、これも大国主久々遅彦や先代狗古智卑狗を祀っているようですね。このあたりは歴史の宝庫ですから移住したくなります。また、いい情報をください( ^)o(^ )
FUSA
菊池川堤防のハゼ並木は幼い頃、高瀬駅から大浜の母の実家まで母に手を引かれて歩いた道です。今では車で通る度にいつも懐かしく当時を思い出しています。
菊池川の石バネもだいぶ埋められてしまいましたね。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「肥後国の古墳」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事