熊本から気ままに山と自転車のブログ

おてもやん銅像・川尻船着場

おてもやん銅像・川尻船着場
2018/1/2(火) 晴

今日は、快晴で風も弱く絶好の自転車日和。
先ずは、新町経由で祇園橋へ。
祇園橋袂の小公園に「おてもやん」の銅像(写真1参照)がある。


台座には、民謡「おてもやん」の謂書のプレート(写真2参照)がある。
「おてもやんと永田いね
江戸末期の米屋町三丁目に、『糀屋』という味噌製造所があった。この永田家は細川家に多額の御用金を献納して、名字帯刀や家紋三柏の使用を許されていた。
永田いねは、元治元年の年の瀬も迫った十二月二十四日、「糀屋」の主人永田大八の一人娘として出生した。母・辰さんの希望で、四才の時から踊りを習い始め、やがて琴・三味線・笛・太鼓等幅広く芸事に精通していった。
井芹川で舟遊びしていて唄ったのが、横手の細川邸にまで聞こえ、殿様(護久公)の所望によって舞や唄を披露し、脇差を戴いたこともある。
明治十五年には、亀甲屋嵐亀之助と名乗り、女芝居一座を組んで、大阪・名古屋方面まで巡業に出た。一座を解散した後は、沢山の弟子をかかえて踊りや三味線・唄の師匠としていたが、その稽古は厳しく、少しでも間違えると扇子や煙管でビシビシ叩いて特訓をしていたので、『気違い師匠』のあだ名があった。
民謡『おてもやん』は、いねが春日の五反で師匠をしていた頃作られたもので、この節が名古屋巡業の際に影響を受けたのであろう。(『五福百年』より)」とある。


川尻薩軍本営跡の西に「国指定史跡川尻御蔵前の船着き場跡」(写真3・4参照)がある。




説明板(写真5参照)によると、「川尻は肥後藩の軍港で年貢米の集積、積出港でした。
ほとんどの年貢米は、水運を通じて飽田・託麻・益城・宇土の四郡十八手永から二十万俵が川尻御蔵に集められました。・・・」とある。



川尻船着場跡
2015/5/8(金) 晴

天候は快晴、午後2時半出発。
自動車税を納付するために銀行に向う。気温は高めだが風が心地よいので、帰宅することなくそのまま南方向へ走る。
自転車を常用している私には、10円/kmほどの税額になる。
二酸化炭素排出削減にも協力していることになる。
自転車道の整備費を少しでよいので増額してもらえればうれしいなどと、かってな理屈を考えながら走る。
白川熊本西大橋の上(橋上からの上流方向風景・写真1参照)にも5月の風が吹き抜けている。


橋を下り県道51を右折し、熊本港という選択肢もあったが西風が強いので並立方向へ左折する。
国道501を南進する。平木橋の袂に紫色の花が見える。
クサフジか?と近づき足を止めて見る。
カラスノエンドウか、スズメノエンドウか、カスマグサか種類は分からないが今を盛りと咲いる。
緑川平木橋を渡り、「半月焼き」の店に立ち寄り甘物を少し食する。
走潟小学校の先の信号を左折し、浜戸川硴江(かきのえ)橋を渡る。
川筋(写真2参照)が人工的なのは、江戸時代後期に緑川に合流して浜戸川を分離したことによるものであろう。
「硴」とは「牡蠣」のこと。昔この辺りが海辺だった頃、沢山の牡蠣が獲れたのだろう。珍しい地名と思う。


東進し、JR富合駅前に出て左折し、浜戸川、緑川、加勢川と渡り返す。
加勢川右岸には、川尻町が湊町だった頃の船着場(写真3参照)が復元整備されている。


川尻町中心市街地の旧国道3から左手に折れた通りに、瑞鷹酒造(写真4参照)の大きな白壁の建物が見える。
「瑞鷹醸造元」の文字は金箔か?立派な看板である。


今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)19km→走潟小学校20km→熊本(自宅)
所要時間3時間(実2.5時間) 総計39km 走行累計11,349km

自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

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