投資家の目線

投資家の目線504(藩札にみる金融政策)

 山川出版社の「県史」シリーズを読むと藩札(銀札[江戸時代、諸藩が発行した銀貨代用の紙幣]等)についての記述がみられる。「藩札は財政難や正貨不足の補填、また他藩藩札への流通経済上の対抗などを契機に発行される」(「宮崎県の歴史」坂上康俊、長津宗重、福島金治、大賀郁夫、西川誠 P245)。藩札には、不換紙幣の場合と兌換紙幣の場合があるが、どちらもあまりうまくいっていないケースが多いように思われる。県史シリーズの藩札に関する内容を要約すると次の通りである。

・青森
 一八三〇年代、八戸藩では大凶作になり、藩では御用商人の西町屋と美濃屋に銀札と預かり切手を発行して、食糧を強制的に買い上げて飢饉に対処しようとした。しかし、インフレーションが進み、経済の混乱は極度に達した。囲い稗と他領からの穀物を融通することで計画的に凶作を乗り切ろうとしたが、銀札や預かり切手はすでに価値を失っていて、ただ同然に農民から穀物を取り上げることになった。それに反対した一揆(稗三合一揆)が起きている。
「青森県の歴史」長谷川成一、村越潔、小口雅史、斉藤利男、小岩信竹 P240

追記
・岩手
 幕府からの御手伝普請、蝦夷地警衛、二十万石への格上げに伴う軍役や対外的支出増により、財政難になった盛岡藩は天保七(一八三六)年に七福神札という藩札を発行した。しかし、そのことが物価騰貴を招いて経済が混乱し、百姓一揆が頻発した。
「岩手県の歴史」細井計、伊藤博幸、菅野文夫、鈴木宏 P233

・宮城
 窮乏する藩財政を打開する方策として、仙台藩は藩札の発行と鋳銭事業を採用している。
 仙台藩の最初の藩札(天和三(一六八三)年十二月晦日発行の「楮幣」)は財政の窮乏を打開するために発行されたもので、正貨の準備もない不換紙幣だった。むしろ、強制的に藩が藩札を正貨と引き換えさせ、正貨を藩に吸収しようとする政策で、一時的に藩財政を救っても、結果は物価騰貴をきたし社会に大きな混乱をもたらした。発行して一、二年で回収の必要にせまられたが、引換金はなく藩借金の返済を一時中止し、その金を藩札回収にあててようやく四年がかりで回収した。
 苦労なく正貨を手にできることから、財政難を理由として、むこう六、七年間、藩内での使用に限ると幕府に願い出て、元禄十六(一七〇三)年三月にふたたび金一分札と金二朱札の二種類の藩札を発行した。前回の経験から、金札が忌避され正銭が退蔵されるなどの弊害を避けるためもあって、翌宝永元(一七〇四)年七月に百文札、五十文札、十文札の三種類の銭札も発行した。藩は銭札の通用を促進させる意図から両札の交換比率なども定め布告したが、四日後に銭札を割引して使用するものがいるという理由で、百文札は一〇〇文というように額面通りの通用を命じるなど混乱した。藩当局が金貨だけでなく銭貨も藩札としたため、正貨の使用が不可能となり徐々に藩札は通用したが、信用は低下し、物価が騰貴して領民を苦しめた。藩は年末には藩札の廃止を検討しはじめ、引き替えの正金を家中からの「半知指上」(知行地の年貢を半分借りること)という手段で確保し、総家中に徹底した倹約を命じた。かわりに、諸士の役負担を多少軽減するなどの処置をとったが、家臣の不満をしずめることはできず、借り上げの対象を百姓・町人にまで拡大した結果、町人・富商のなかには、献金によって藩士の株を取得する者もあらわれた。宝永三年十月、一方的に藩札の通用を禁じ正金のみの通用とした。引き替えでなく、強制的に藩札を無効としたので被害はきわめて大きかったという。
 藩札の発行と類似する鋳銭の例としては、二代藩主忠宗の時代に藩内の三迫で行なわれている。正徳元(一七一一)年、仙台藩内で鋳銭を行ないたいとの江戸町人の願い出があった。藩も銭が不自由であり鋳銭が行われれば藩内もうるおうことになるということで、銅は藩内の産銅を使うので七カ年間の期限で許可されたいと願い出たが、幕府から許可されなかった。享保十一(一七二六)年三月、五代藩主吉村はふたたび鋳銭願いをだし、他領産銅を買い入れぬ条件で許可され、鋳銭の半高を藩内で、残る半高を江戸で売り、江戸払高の一〇分の一を幕府へ運上する条件で、同十三年二月に石巻で寛永通宝の鋳造がはじまった。あった。出銅不足などから一時休業もしたが、吉村時代の鋳銭は寛保二(一七四二)年十一月末まで十四年間にわたり行なわれた。この鋳銭事業で仙台藩は予想以上の収入をえることができ、財政窮乏から脱却できる見通しがでてきた。
 升屋は仙台藩で金一切・金二朱の二種の為替手形を発行し、この為替手形はいつでも小判に引き替えることができるもので、兌換できる実質的な藩札である。升屋は買米代金をこの為替手形で調達し、江戸における米の売払金(正金)を調達した買米本金および藩の借金の返済分として升屋が受け取ることにした。升屋の手形は、最初は円滑に通用しなかったが、升屋が引き替えの正金を準備したので手形の信用がでてきて、しだいに藩札同然に通用するようになった。
「宮城県の歴史」渡辺信夫、今泉隆雄、大石直正、難波信雄 P201、P232

・秋田
 藩をゆるがす大事件として宝暦の銀札騒動がある。秋田藩は慢性的な財政難の打開策として領内のみに通用を限定した紙幣を発行した。秋田は銀遣いの経済のため、この藩札を銀貨と交換できる兌換券として信用をもたせ、これを領内に普及させて領民から正貨を吸い上げ、江戸や大坂の藩外支出にあてて財政の補填を計画した。宝暦四年七月、兌換の保証を条件に幕府より藩札発行を許可されたが、藩の専売政策や殖産政策をともなわないものだったので、経済対策としての効果を期待できなかった。まず、兌換券の発行に札元を確保するところから苦労し、ようやく翌宝暦五年二月になって三四名の札元が決まり、銀二分札から一〇〇匁札まで一一種類の発行にこぎつけた。しかし領民の反応は冷淡で、紙幣としての信用不安から正貨を退蔵し、手に入れた藩札は使われることなく兌換を求めて札元に殺到した。同年五月、藩は総力をあげて城下の不正退蔵者を摘発したが、成果をあげられなかった。この年と翌六年と、二年続きの大凶作は飢饉の様相を呈し、米の強制買い上げや米価暴騰なども藩札流通の阻害要因となった。
 宝暦七年二月、美濃国の茶商人たちが秋田領内で販売した茶の代金に銀札をうけとり、その兌換を札元に依頼したが拒否されたため幕府勘定奉行所へ訴えて、札元三四名の幕府への出頭命令書をたずさえて来るという事態が起こった。これは、他国商人の妨げとならないことを条件に藩札発行を許可された秋田藩は兌換を許し、以後の茶商売を保証して訴訟を示談にもちこんだだけでなく、これ以降、他国商人との取引には正銀を用いるよう指令した。
「秋田県の歴史」塩谷順耳、富樫泰時、熊田亮介、渡辺英夫、古内龍夫 P261

・茨城
 元禄十六年の後半から水戸藩が行った積極的な財政改革(宝永の新法)では、最初藩札を発行して藩内の通貨不足をおぎない、商品流通を活発化しようとした。ついで藩は藩札の交換をすすめて正貨を吸収しようとしたが、宝永四年十月幕府は各藩の藩札発行を中止させたので、水戸藩もこれにしたがった。なお、この財政改革は農民の反対に直面し、宝永六(一七〇九)年一月に中止された。
「茨城県の歴史」長谷川仲三、糸賀茂男、今井雅晴、秋山高志、佐々木寛司 P170

・富山
 成立当初から財政の苦しかった富山藩は、元禄十四年には藩札発行をはじめ、また享保十六(一七三一)年にも再発行するなどして財政をうるおそうとした。しかし、宝暦ごろに江戸での出費が相当かさむようになり、上方商人への借銀が多額におよんだ。
「富山県の歴史」深井甚三、本郷真紹、久保尚文、市川文彦 P178

・石川
 宝暦四年に、加賀藩は銀札発行を計画し、五年七月一日から通用させた。支出が一万四〇〇〇貫目余なのに収入が七四〇〇貫目余しかみこめないためで、家中へ「続き銀」として銀札を知行一〇〇石に銀五〇〇目ずつ貸し渡し、除知(藩が肩代りした借銀を、知行高から差し引く方法で返済させるもの)の方法で二〇カ年で返済するものであった。しかし、この噂がたっただけで正銀のためこみが行われ、銀子での貸借・質取りをしなくなって金融が閉塞し、家中が困窮、発行された銀札は価値が下落して、物価が三割方上昇した。正銀で取引する他国の商品が回漕されず、金沢は物資不足におちいったうえに不作であったため米価が高騰し、買い占める商人がでた。翌六年四月十二日夕方に打ちこわしが発生し、この騒動で藩の年寄中に銀札廃止論がでて、結局七月二十五日限りで通用を停止した。しかし、米の端境期であったため米価はあがり続け、餓死するものが多かったとされる。
 文政九(一八二六)年には、満会まで二年ある仕法調達銀を一方的に廃止して、同時に町在に七〇〇〇貫目の用銀を課した。調達銀は返さず、それを借りていた家中の士に返済を求めず、かわりに増借知をし、その米を引当てにして銀仲預り手形を発行した。当時はほかに文政二年、金沢町会所発行の手形と、両替商が銀子不足でだした預り手形があったが、前者は天保七年にこの銀仲預り手形に統合され、明治新政府の貨幣と交換された。名目は預り手形であったが、実質的な銀札である。
 安政五年、五月から七月は長雨で凶作がみこまれ、米の買占め、売り惜しみで米価が高騰した。安政三年に家中救済のため銀札を一万貫目も増発したためすでにインフレだったうえに、さらなる高騰して貧民は食うに困り、打ちこわしがおこっている。

 大聖寺藩では享保期(一七一六~三六)に銀札を発行したが、元文元(一七三六)年に正銀との比率が不当であるとして大勢が札場で引き替えを求める騒ぎがおこった。
「石川県の歴史」高澤裕一、河村好光、東四柳史朗、本康宏史、橋本哲哉 P212、P232、P236、P245

・福井
 万延元年の大野城下で、銀札相場が狂うとの風聞に、心配なしとの触れがだされたという記述がある。
「福井県の歴史」隼田嘉彦、白崎昭一郎、松浦義則、木村亮 P198

・長野
 信州では金・銀・銭の三貨のほかに、藩札、旗本札、宿場札、町村札・私札・商品札などのお札(紙幣・有価証券)が使われている。藩札は元禄十七(宝永元、一七〇四)年の飯田藩の銭札発行が最初で、天保六(一八三五)年には高島藩が銀六〇匁など五種の銀札を発行した。幕末には松代藩、奥殿藩などが発行した信州初の旗本札に文久三(一八六三)年の小県郡矢沢知行所の会所銭札があり、明治初年にも松本・飯山・飯田・上田・高遠諸藩が藩札を発行した。宿場札は中山道の宿場を中心に人馬賃銭勘定を主用途として発行され、馬籠宿では天保十年から発行された。町村札は南信とくに飯田藩領で多く、上黒田村(飯田市)では天保三~明治四(一八七一)年に七万九六九枚の村札が発行された。なお当時、下伊那地域で町村単位の市場圏が成立していたとされる。
 私札は嘉永七(安政元、一八五四)年の飯田町阿波屋の八銅(八文)札、上穂村(駒ケ根市)の増屋嘉蔵の銭札などがある。商品札でもっとも多くかつ早期から各地にみられるのは酒札で、このほか茶札、砂糖札、肴札、数の子札などのほか、菓子札や豆腐札、味噌札などの商品札の事例がある。
「長野県の歴史」古川貞雄、福島正樹、井原今朝男、青木歳章、小平千文 P215

・愛知
 寛政四年、幕府の特別の許可を得て、負債解消のために米切手を発行した。しかし、米取引を前提としたものではなく、藩札である。もともと正金不足を補うための発行なので、藩に兌換能力はなく、市場における藩札の信用は維持されず、財政運営は困難だった。
 尾張藩は、この財政状態下で米切手を回収しなければならず、そのための多額の正金が必要とされた。そこで藩は御用達商人に調達金を命ずるだけでなく、蔵役金賦課や商家の立入調査の実施など商人全体に対する支配を強化した。さらに、富籤や日掛け銭、金銀製品物の拠出まで、一般の町人・百姓まで動員して正金の吸上げをはかった。
 株仲間(幕府の株仲間解散令をだしている)に冥加金をおさめさせる制度を発足させたり、近江八幡との替え地を実現して近江商人に御用金を課したり、弘化二(一八四五)年に、五年で二〇万両の米切手回収資金を貸与されたりと、尾張藩は幕府から特別扱いを受けている。さらに嘉永元(一八四八)年に幕府からふたたび一〇万両を貸与され、米切手の回収が完了したが、これで藩財政が健全化したわけではなかった。
「愛知県の歴史」三鬼清一郎編 P208、P226、P227

・滋賀
 「積銀仕法」(備荒のため頼母子講のかたちで銀をたくわえさせたもの)で集まった積銀を藩財政補填(米札引換えのための資金)のため転用しようとしたため、柳川騒動(彦根藩郷士柳川新助をおそった事件)が起こった。藩は「積銀仕法」を廃止することによってこの騒動を終わらせたが、彦根藩の財政難の糊塗策が、この領民の反対運動によって挫折した。
「滋賀県の歴史」畑中誠治、井戸庄三、林博通、中井均、藤田恒春、池田宏 P254

・京都
 天保年間(一八三〇~四四)、綾部藩の城下町には二七八軒を数えた。有力商人の京屋・山崎屋などが金融・酒造・油絞り・醤油などの権利をもっていたが、京屋は藩札の取り扱い事務にもたずさわっている。
「京都府の歴史」朝尾直弘、吉川真司、石川登志雄、水本邦彦、飯塚一幸 P224

・大阪
 元和元(一六一五)年の十一月に、南堀川(道頓堀)が完成、同三年には西横堀川から分流し百間堀川に至る京町堀川が開かれ、また同年中には京町堀川の北側に江戸堀川も開削された。このとき発行された銀札はわが国最古の銀札とされている。
「大阪府の歴史」藤本篤、前田豊邦、馬場綾子、堀田暁生 P167

・兵庫
 貨幣不足をおぎなうために各地で藩札や私札が発行されたが、兵庫県域では伊丹や尼崎の私札がもっともはやく、寛永十四(一六三七)年尼崎西町二丁目の樽屋七兵衛が、伊丹でも堂屋・紙屋・薬屋の屋号をもつ商人が元和・寛永ごろに私札を発行している。藩札は寛文十(一六七〇)年に尼崎藩と姫路藩で発行されている。

 出石藩でも延宝二(一六七四)年に藩札を発行したが不安定であったようで、元禄九(一六九六)年藩主小出家が断絶したとき藩札の引換えを求めて群衆が押しかけ、応じられなかった御用商人宅が打ちこわされる事態が生じている。

 赤穂藩では延宝四(一六七六)年に藩札が発行され、延宝八(一六八〇)年から実施された赤穂塩の取引仕法で利用された。塩奉行から塩問屋を通じて生産者には藩札で代銀を支払い、他国の塩買人からは正金銀で大坂蔵屋敷に納入させることにより幕府正貨を確保した。元禄十四(一七〇一)年赤穂藩浅野家が断絶したとき、家老大石内蔵助が延宝以来発行した藩札総額八〇〇貫余を額面の六割で銀に引き換え、民衆の損失を最小限にとどめた。

 豊岡藩・徳島藩・柏原藩・龍野藩でも、延宝から元禄にかけて藩札を発行した。

 幕府は宝永四(一七〇七)年に幕府正貨の流通促進のため藩札の発行を禁止したが、通貨量の不足が深刻化し、享保十五(一七三〇)年に政策を変更し、先例をもつ藩にかぎり藩札の通用を認めた。諸藩で発行が再開され、近世後期には新規に発行を開始する場合もあった。
 尼崎藩では享保十五年に銀札の発行が再開され、翌十六(一七三一)年九月には藩内の全大庄屋が集合して「銀札通用之相談」を行った。それは町方だけではなく村方でも藩札が流通していたためで、藩では寛保三(一七四三)年には「御救銀札」を大量に発行して融資にあてるとともに、領内における運上銀・上納銀・蔵米代銀や一〇〇文以上の商取引に銀札を用いることを命じるなど財政・金融政策に活用した。

 但馬の出石藩・豊岡藩も享保十五年に発行を再開し、出石藩では銀札の専一的通用が布達された。その影響をうけて但馬の旗本領(出石藩小出氏や豊岡藩京極氏の分家)でも独自に地元の富商や大坂の商人を札元に、銀札や米納切手が発行され札遣いが行われた。

 播州の赤穂藩では享保十六年、藩主森家のもとで銀札の発行が再開され、加里屋一丁目に「金銀両替所」が開設された。そのほか商人の信用に基づく私札も発行され、姫路藩の「するめ札」など贈答用の商品券的な性格のものも存在した。

 商品・貨幣経済の発達により領主財政が窮乏すると、諸藩は特産品生産と専売制を導入することで藩財政の建直しをはかったが、藩札の発行も多くは専売制と一体化して実施された。
 姫路藩の藩政改革では、文政三(一八二〇)年切手会所を開設して多種類の銀札・銭札を発行し、翌四(一八二一)年には国産会所を併置して専売制を開始した。専売品の中心は木綿で、播州木綿は江戸で「玉川晒」「姫玉」と称されて人気があったため江戸直送体制を確立し、領内での集荷は藩札で行い、江戸での販売代金は正金銀で藩庫に納入することとした。領内で通用を強制した藩札は木綿の生産高(毎年一〇〇万反以上)に応じて発行され、江戸で正金銀が獲得されていることから信用が確保されて藩札仕法としても成功をおさめ、負債七三万両を返済し、藩財政は黒字に転じた。

 明石藩では寛延三(一七五〇)年から銀札の発行を開始したが、正銀不足から引換えの停止がたびたびおこなわれて信用が低下した。天保九(一八三八)年に木綿専売を開始し、木綿問屋に独占権を認めて大坂登木綿の仕切り銀を上納させたが成功しなかった。

 三木では十八世紀後半から金物生産が発達し、三木に飛地領をもつ館林藩ではその経済力に注目し、文政六(一八二三)年に切手会所を設置して銀札の発行にのりだした。さらに文政十三(一八三〇)年には金物の専売制を計画したが、江戸・大坂に既存の販路を確立していた三木の有力金物問屋の抵抗にあって挫折した。

 但馬の出石藩では文政五年に産物会所を設けて生糸専売にのりだし、不換紙幣の銀札発行ともあわせた藩政改革を行ったが、その失敗が仙石騒動の一因となった。

 藩札仕法をはやい時期から実施していた尼崎藩は専売制の開始時期が遅く、天保九年に鶏卵専売、嘉永三(一八五〇)年に名塩紙専売と飛地領の播州赤穂郡上郡村で木綿専売を実施したが成功しなかった。
「兵庫県の歴史」今井修平、小林基伸、鈴木正幸、野田泰三、福島好和、三浦俊明、元木泰雄 P245、P247、P248

・奈良
 江戸中期以降には、郡山藩だけでなく各藩ともに深刻な財政難に直面するようになった。しかし、非領国地域に属していたこともあり商品経済の発展に対応して専売制などの施策を打ちだすことができず、また年貢を増徴しようとすれば領民の抵抗にあったため、藩札の発行や家中知行の借上、御用金の賦課などによって急場をしのいだ。
「奈良県の歴史」和田萃、安田次郎、幡鎌一弘、谷山正道、山上豊 P222

・和歌山
 第二次幕長戦争後、藩財政の赤字を解消するため、藩士の俸禄削減が問題になり、紀州藩は慶応三(一八六七)年十月、摂津・河内・和泉・播磨と紀伊の五カ国に通用する藩札の発行を願いでて認められた。大坂商人からの融資の吸収を目的としており、急場をしのぐうえでかなりの効果があった。領国を越えて流通範囲をもつ藩札が日本近世史上はじめて発行されたが、幕府崩壊後、その処理が難問となった。
「和歌山県の歴史」小山靖憲、武内雅人、栄原永遠男、弓倉弘年、笠原正夫、高島雅明 P269

・鳥取
 藩札発行の銀札場、国産役所、産物会所なども設けられ、海岸の主要な港に設置した藩の米倉にはそれぞれ御蔵奉行を任命したことや、正金銀の使用を禁止して銀札を通用させるため、新しく六種の銀札を発行したという記述がある。
「鳥取県の歴史」内藤正中、真田廣幸、日置粂佐衛門 P153、P186

・島根
 明和の改革は復古的勧農抑商の傾向がきわめて強い改革である。義田没収や闕年にみられるように過去の約束を反古にする強引ともいえる改革である。利息付借金の禁止、旧債年賦返済、下郡の更迭、銀札の廃止、闕年などは商業・高利貸し資本に対する抑制政策である。改革はひたすら藩の財政再建のためであり、明和四(一七六七)年の藩の御金蔵畜蔵金高が六九〇両であったのが翌五(一七六八)年には七二三七両となり、同六(一七六九)年に三八二九両におちこんだものの、同七(一七七〇)年には七五二八両に回復した。
「島根県の歴史」松尾寿、田中義昭、渡辺貞幸、大日方克己、井上寛司 P232

・岡山
 黒船来航時の房総警備は岡山藩に多大の財政支出を強いることになった。これによりすでに窮迫していた藩財政は危機的状況におちいり、藩当局は家中および領民に対して厳重な倹約を命じるとともに、諸費用を半減するよう指示した。さらに安政元(一八五四)年十一月に、藩札の価格を一〇分の一に切り下げる銀札改正令を公布した(「安政の札潰れ」)。このため領域経済は混乱し、領内の豪商農には破産するものが続出した。
「岡山県の歴史」藤井学、狩野久、竹林榮一、倉地克直、前田昌義 P256

・広島
 開国時、主要輸出品であった生糸・茶の高騰が一般商品にまで波及したこと、それに加えて金貨の流出を防ぐため金位を三分の一におとした新しい金貨が流通したため、国内ではインフレを引き起こした。さらに慶応年間(一八六五~六七)にはいると、この金銀比価の影響が芸備地方にも浸透し、当然ながら「金相場狂い」が生じ、広島藩が発行していた銀札の価値が大幅に下落した。銀札建てで商っていた芸備地方の豪農商たちの家督が大きな損害をこうむった。
「広島県の歴史」岸田裕之編 P207

・山口
 延宝五(一六七七)年、萩地方での大地震後、はじめて藩札(延宝札)を発行した。
 宝暦三年八月、長州藩は、「札遣仕法之覚」をだし、再度、銀札を通用させることにした。この銀札は、一〇カ年で約五〇〇〇貫目に達した。同藩は、享保札の失敗にかんがみ、領民に信用不安を生じさせないため、札座引替米として毎年一万七七七四石余を支出し、正銀四九五貫目を得て銀札の引替準備銀とした。これまで、長州藩では延宝札と享保札が発行されたが、とくに、享保札は、家臣救済の名目とする銀札の乱発、享保十七(一七三二)年の激甚な虫害などによって、領内に信用不安が蔓延したので、元文五(一七四〇)年一月に実質九年間で通用が停止された。今回、長州藩は、城下町萩で櫨蠟を取りあつかう豪商花田治左衛門に札座を請け負わせ、領域経済の拠点である萩渡り口(萩市)・山口(山口市)・瀬戸崎(長門市)・船木(宇部市)・波野(田布施町)・鹿野(周南市)に札座を設け、銀札の通用をはかり、享保期と同様に諸上納銀を銀札で上納させることとした。
 長州藩は、享和三(一八〇三)年二月に国産品を銀札で調達し、大坂で売りさばいて正銀を得るという仕組みをととのえた。

 長府・徳山・岩国の各支藩は、萩本藩から分与された銀札に「裏印」を押して通用させていたが、寛政期(一七八九~一八〇一)以後、各自で藩札(幕府公認でなかったので「預り札」と称した)を発行するようになった。
「山口県の歴史」小川国治編 P168

・香川
 丸亀藩では元禄十二(一六九九)年に領中に御用銀を課して、年貢以外の収入の増大をはかり、宝永二(一七〇五)年に藩札を発行して領内に通用させ、正貨を藩へ吸収して藩財政の財源にあてようとした。享保期(一七一六~三六)にはいると本格的な財政難におちいった。また宝永四年に幕府の命によって中断していた藩札の発行を、享保十五年に幕府の許可があったので再開した。
 元禄七年に丸亀藩は支藩多度津藩をおいた。同藩でも享保十七年に藩札を発行した。

 十七世紀後半から、十八世紀初めにかけて、財政難解決の方法として藩札を発行する藩が多くなった。藩の支出に藩札をあてるとともに、藩札との引き換えで得た正銀を藩の負債の返済や、江戸藩邸など領外での支出の財源にした。高松藩では宝暦七年に藩札を発行し、当面の藩財政難を乗り切るとともに、抜本的な藩財政の立て直しの方法としても考えられていた。
 年貢米の銀納分や諸雑税、町や郷への貸付金の返済など領民から藩へおさめるものはすべて藩札によるものにして、藩札の領内への円滑な適用をはかった。発行された藩札は正銀と引き換えも順調に行われ、十分な成果をあげて藩財政の安定に寄与した。しかし「宝暦七丑年銀札出来之節戯評判」によると、藩札の通用を強制された領民にとっては、必ずしも歓迎すべきものではなかった(城福勇「宝暦七年発行の讃岐高松藩銀札の発行について」『日本歴史』二五四号)という。
 宝暦九年には、借銀によらずにその年の年貢収入のみによって藩財政を運営しようという支出の徹底的削減をはかる緊縮財政に取り組むことになった。節約によって残った分は別置して蓄えることにし、そこから可能な範囲で借銀返済を行うこととし、それから五年後の明和元(一七六四)年には借銀返済も順調に進み、剰余金を蓄えるまでになった。こうして御用金にはじまり、塩田の築造、藩札の発行、緊縮財政の実施と進められた宝暦の財政改革は目的を達成し、藩財政再建に成功した。
 宝暦の財政改革によって高松藩の財政は持ち直したが、江戸藩邸の焼失や大旱魃で、寛政の後期に入ると藩財政はゆきづまりの傾向を見せ始めた。こうした状況下で、積極的な藩札の貸付と国産奨励を柱とする政策が、享和元(一八〇一)年から実施された「享和新法」である。
 享和元年の二年前の寛政十一年に農村の土地調査である順道下調書の作成、翌年には検地帳と永引通帳の提出が命じられ、永引地(年貢のかからない土地)となったものを整理するとともに、順道帳(検地帳に類する土地台帳)をつくって年貢のかかる土地の実態を把握して年貢の安定的な徴収をめざした。
 宝暦七(一七五七)年に通用がはじまった高松藩の藩札は信用を落とすことなく順調に通用したが、寛政期にはいると、藩政担当者は藩札の増加に伴ってその信用が低下するのを恐れて、藩札の流通量を減らす方針をとり、札会所へ藩札を回収した。
 しかし享和元年には年寄となった玉井三郎右衛門は、札会所に蓄えられた藩札を積極的に活用して、財政収入を増やすよう藩政を大きく転換した。家臣貸付・町郷貸付・元手銀貸付がその内容であった。困窮家臣へ御用商人大和屋清助を通して藩札を貸し、返済は家臣の知行米を大和屋が売り払い、その代金から貸付の元利を札会所へおさめさせた。町郷貸付は城下や郷中の裕福者や金融業者に用地山林や質物などを抵当にした貸付である。のちに札会所とは別に世帯方からも貸付けるようになって貸付高が多くなり、藩札の信用を落としていく原因になった。
 このように享和新法では藩札貸付や国産奨励とともに、永引改めによる年貢米の確保や国産代銀の正貨納による正銀の確保が行われている。そして大量の藩札の通用による引き換え正銀の不足が藩札の信用を低下させ、インフレ状態となって領内の経済的混乱を引きおこし、次の天保の改革の重要な原因となった。一方、国産奨励によって国産品の生産が盛んになり、特に砂糖が重要な国産品であった。
 天保の改革の内容は文政九(一八二六)年の坂出塩田の築造開始、同十一年の藩札回収、天保元年の郷村取締強化と郡村入目の削減、同三年の以後三年間の各地商人の借銀支払い停止、同四年の新藩札の発行、同六年の砂糖為替金趣法の実施などである。
 財政難が進むにしたがい領内に大量に通用する藩札と正貨との引き換えができず、札会所を閉鎖せざるをえない状況になった。このため正貨との引き換えの裏付けのない藩札は一〇分の一ほどに価値を落とし、インフレ状態になって藩経済は混乱した。これに対し藩は通用藩札の回収を行うことにし、文政十年に藩有林八〇カ所と藩の直轄地たる御用地の作徳米二四三石を売り払って、藩札一万六六二貫余を回収したが、翌年には年貢米四三〇〇石の土地の永年売り払いを行って、藩札二万九四〇〇貫余を回収した。年貢米永年売りは三、四年で取り止められたというが、田地からの年貢米未収納を否定する、領主の農民支配の根幹に関わる問題をはらむものであった。領内の通用藩札は減少して信用も回復してきたので、天保四年に藩は新藩札を発行して旧藩札を引き換えさせ、金一両=銀札六〇匁での通用を命じた。以後ときには正貨との引き換えに差し支えることはあったが、藩札の信用を落とすまでには至らなかった。
 天保六(一八三五)年から、高松藩は借銀返済の財源確保の方法として砂糖為替金趣法とよばれる砂糖の流通統制を実施した。その内容は砂糖生産者に藩札を貸し付け、その返済は砂糖を大坂で売り払った代金によって、正貨で大坂の蔵屋敷におさめさせるというものであった。この正貨が借銀返済資金にあてられた。

 丸亀領内では領内通用の正貨が不足する事態になったため、正貨の藩札との引き換えが制限され、藩札の信用低下をおこして藩経済は混乱していた。こうした藩札の流通状況に対して安政二年五月に封札の方針がだされた。その内容は藩札を余分に所持しているものは銀札場へ預けるか封印して各自で保管する、封印札には利銀としてその高の三分五厘を渡す、必要あれば申し出より開封する、藩札の信用が回復すれば全額の封を解くというものだった(「銀札御取締に付御口演書写」『香川県史9近世史料Ⅰ』)。封札は強制ではなかったが、のち十二月に御中へ三〇〇〇貫目の封札が命じられた(覚書「長谷川家文書」)ほか、翌三年と四年にも封札が行われている。丸亀城下の封札高は一六七四貫余であった(「町会所万覚帳」丸亀市立資料館蔵)。封札は領民に大きな負担を強いるもので、多度郡大麻村の百姓武兵衛が安政三年に一貫目、翌四年に四〇〇匁の封札と割り当てられたため、屋敷・田畑を売り払って封札を用意している例があるという(諸願書「長谷川家文書」)。
「香川県の歴史」木原薄幸、丹羽佑一、田中健二、和田仁 P143、P167、P190、P192、P193、P234

・愛媛
 宇和島藩では、文政七(一八二四)年に第七代藩主となった伊達宗紀は再び悪化した藩財政の改革に取り組み、まず五カ年間の厳略(奢侈防止、倹約の実施)が実施された。次に藩債整理が行われたが、大坂の借財の帳消し、藩内通用の藩札は三分の二の借り上げという大阪商人と領民の犠牲で処理された。第三が、藩財政補填の中心であった紙・蠟を専売制にし、それらの生産の収益を吸収した。さらに干鰯などの海産物も蔵物として大坂に出荷して大きな収益をあげ、この財政改革の結果、八代宗城が藩主になったとき、藩には六万両の蓄えができていた。

 新谷藩で郷筒取立が行なわれ、文久三年六月喜多郡出海・今坊村に海防のため「郷組」(在郷の足軽組、準藩兵)という農民鉄砲隊を組織された。鉄砲稽古(月一回)には、夫役料銀札三匁が支給され、採用は農民の出願制で志願者は銀札一貫目を上納する定めであった。出海村から二〇人、今坊村から二五人が志願した。

 松山藩では文化六年(一八〇九)年松平定通が藩主となり、以後二七年間の治世の間旱魃・大雨などによる凶作がたびたびおこったため藩の財政も行き詰っていた。そのため家中に倹約を命じ、藩士の俸禄の三割から割の借り上げを行ない、かつ文政六~八(一八二三~二五)年には旱魃による人数扶持、さらに天保四年にも人数扶持を実施した。こうした借り上げと倹約の実施で、生活の困窮に陥った藩士には、銀札支給や米の前貸しなどの救済措置も同時にとられた。
「愛媛県の歴史」内田九州男、寺内浩、川岡勉、矢野達雄 P231、P232

・高知
 開国はさまざまな点で民衆に影響を与え、貨幣改鋳や藩札の発行による諸物価の高騰をはじめ経済面での混乱があった。
 藩政から県政への移行事務が、旧藩吏員の手で開始され、東京において林包直らが藩債処理、とくに藩札の整理のため政府との折衝にあたった。
「高知県の歴史」荻慎一郎、森公章、市村高男、下村公彦、田村安興 P218、P294

・福岡
 天保四年(一八三三)年十二月、困窮する家臣や領民の救済を名目に、御救仕組とよばれる藩政改革が開始された。具体的には、大量の藩札を発行し、借銀に苦しむ家臣や領民に貸し付けて借銀を返済させようとするもので、返済は借用した藩札一貫目につき毎年米七俵を数年間にわたって上納させることになっていた。上納米は、領内での入札販売によって藩札の回収をはかるとともに、領外に販売して正貨を取りこむ計画であった。また、藩札の流通量を増やすため、連日のように芝居や相撲などの興行が行われ、博多中島町(福岡県博多区中洲)一帯は歓楽街として大変な賑わいをみせるようになった。そのほか、大坂の蔵元に対する借銀の返済を一方的に凍結したり、生蝋や石炭など国産品の専売制を強化して財政収入の拡大をはかったりした。しかし、藩札の発行高は天保五年だけでも銀三万八四七九貫余という膨大な額にのぼり、藩札の価値は発行後三カ月あまりで半分以下に下落した。このため領内の富裕者に藩札による永納銀(献金)を命じて藩札の回収につとめたが、価値の下落をくいとめることはできず、領民の不満が高まっていった。また、余裕をうむはずであった藩財政も、江戸屋敷建設などの支出がかさんで大幅な赤字となり、改革は失敗におわった。
「福岡県の歴史」川添昭二、武末純一、岡藤良敬、西谷正浩、梶原良則、折田悦郎 P250

・佐賀
 鍋島治茂の藩政改革で、明和九年九月「御改正御書付」を制定した。大阪借銀の五年間元利返済中断や、長崎借銀を御用商人の負担を肩替わりさせる政策をとった。また運上銀や俵銭を増徴し、人別銀を課した。これでも不十分だったので、さらに米筈(米札)(幕府が藩札の新規発行を禁止していたので米筈という形とした)を発行した。米会所で兌換する準備金としては徴収した人別銀をあてることにした。

 明治二(一八六九)年に新政府は版籍奉還を実施した。藩に対する政府の統制が強くなり、知藩事の家計を藩収入の一〇%に限定して藩財政から分離する、藩重職人事には政府の承認を必要とする、あらたな藩札の発行を停止する、藩収入の四・五%は海軍費の名目で政府に納入する、などの措置が実施された。
「佐賀県の歴史」杉谷昭、佐田茂、宮島敬一、神山恒雄 P209、P256

・長崎
 島原藩は長崎に近く有明海を中心とした流通上の要所にあるために、商品経済の農漁村部への浸透は早かった。新しい経済動向にそなえるための政策として、有利な農産商品としての櫨の植えつけ奨励が行われ、寛政期までには櫨実が藩財政の有力な収益源となった。それでも不足する財政を補うため、戸田氏入部時代から銀札が発行された。
「長崎県の歴史」瀬野精一郎、新川登亀男、佐伯弘次、五野井隆史、小宮木代良 P223

・熊本
 享保の飢饉のとき、本藩も急場をのりきるため幕府に願いでて二万両を拝借した。財政は一向に好転せず、翌十八年、銀札通用を願いでて許可された。しかし現銀の準備もなく発行したので信用がなく、十二月には三割引でしか通用せず、十九年正月には六~七割引、借り方の取引には現銀のかわりに一〇割から二〇割の銀札を必要とするなど、結局銀札は嫌われ、二十年正月通用停止となった。銀札は二五年間通用の予定だったが、この後も享保二十年十一月、延享三(一七四六)年二月とも発行のたびに一〇カ月、四カ月で銀札騒動を引きおこし停止された。

 都市騒擾では、宝永四(一七〇七)年熊本町ではじめての銀札騒動があった。銀札は熊本では宝永元年にはじめて発行されたが、この年幕府が銀札の使用禁止をだすということで、各地で大混乱がおこった。この後も銀札が発行されるごとに同様の騒動がおこった。享和二(一八〇二)年には銀札にかわって発行された御銀所預による経済混乱で、熊本町では数百人が御銀所に引き換えを要求して押しかける騒動となった。
「熊本県の歴史」松本寿三郎、板楠和子、工藤敬一、猪飼隆明 P238、P246

・大分
 中津藩では宝暦二年「宝暦札」を発行し、財政危機克服の手段とした。二豊諸藩では杵築がもっともはやく寛延二(一七四九)年に銀札を発行したのに続き、臼杵藩は宝暦三年、府内藩は同四年、岡藩が明和九(一七七二)年、佐伯藩が寛政十(一七九八)年、日出藩が文化五年、森藩および立石領は文政七(一八二四)年とつぎつぎに発行された。
 しかし、これら藩札の発行は藩財政逼迫の根本的解決策とはなりえず、逆に乱発による経済の混乱をもたらした。杵築藩でおこった文政元年三月の五〇〇〇人におよぶ百姓一揆は、府内藩記録によると「御銀札不通用」からおこったという風聞が記されており、府内藩でもこの年の七月、さらに同七年にも「銀札崩」の状況におちいり、文政八年には藩札の通用を停止せざるをえなくなった。

 府内藩では歳入欠陥を補うため借金したが、天保七年には三五〇〇貫余が借財という財政悪化となり、天保八~九年は幕府領大分郡原村の米屋(間藤)幸右衛門の「手賄」によった。しかし貸越し四七一貫余で米屋も手を引き、銀札の不融通による騒動、藩士への給米支給の延期となった。
 府内藩改革の基本方針は、徹底した倹約による緊縮財政、財源の確保のための年貢増徴や七島莚・蠟の専売制(青莚会所・生蠟会所の設置)と金融事業、藩札の整理のための備方の設置などだった。青莚会所は毎年三〇〇貫前後の利益をあげたが、その利益を農村への苗代貸し、藩機関や農民・町人への貸付けにまわした。藩札も青莚会所の利益で再建した。この改革は一定の成果をあげ、弘化~嘉永(一八四四~五四)のころには単年度の収支は引きあうこととなり、廃藩置県時の藩債額は天保十三年時の半分以下まで減少している。

 森藩では文化から天保にかけて再三倹約令・上米令をだして引締めを行い、明礬、楮などの増収、藩札の発行などによって財政の好転を企図した。しかし、天保三年には大坂蔵元から仕送りを断られ、翌四年からは廻米仕法の改正、面扶持制の実施の一方、借財の整理を行っている。

 中津藩は天保五年に黒沢庄右衛門の主導による藩札の立てなおし、撫育会所の設立、人別扶持令などの施策を実施しているという記述がある。
「大分県の歴史」豊田寛三、後藤宗俊、飯沼賢司、末廣利人 P246、P247、P269、P281、P282、P284

・宮崎
 日向諸藩では、それぞれ数種類の藩札を発行しており、地域によってはこれに熊本藩札・岡藩札などが錯綜して流通した。内藤氏は延岡入封まもない宝暦三(一七五三)年、財政逼迫と領内の銀銭不通用を理由に幕府の許可を得て銀札を発行している(通用範囲は城附臼杵郡と高千穂郷に限定、期限一五年間)。藩は百目札以下五十目札・十匁札・一匁札・三分札の五種類の銀札を計六〇〇貫目発行したが、備金不足のためか同六年時の通用額は三〇貫目余とわずか五%ほどであり、藩は期限を待たずに明和二(一七六五)年に通用停止を余儀なくされた。
 その後は振出手形が藩札化して通用するようになるが、高千穂郷ではおもに隣藩の岡藩札が通用し、飛地豊後領では文政六(一八二三)年に、千歳役所札が青筵や高千穂郷の産物買上げを目的に発行された。飛地宮崎郡では安政六(一八五九)年から延岡通用札のうち五匁札・一匁札・五分札・三分札の三〇〇〇両分を宮崎会所印を押して宮崎札として通用させている。振出手形の場合、両替備金不足のため旧札の引上げが貫徹しないまま新札が発行されることが多く、空札化による通用価値の低下と激しいインフレを招く結果となった。

 佐土原藩でも領内で産する楮を買い上げるために楮本銭が発行されている。楮本銭は百文札、五百文札の二種類、発行額は一万四〇〇〇貫文(金約二〇〇〇両)にのぼり、天保四(一八三三)年には発行額数一〇万貫文にのぼる多額の銭札も発行された。飫肥藩では文久二(一八六二)年に清武会所から同地域のみに通用する藩札を発行した。その後元治元(一八六四)年には、備金二万両をともに飫肥城下札と清武通用札を発行した。

 鹿児島藩領のなかでも関外四カ郷は高岡郷を中心に独自の経済圏を形成しており、嘉永六(一八五三)年から翌安政元年にかけて、炭や櫓木・櫂などの御手山産物を積み出す産物積船建造のための資金として、五回にわたり、高岡銀札七万四〇六〇貫文が発行された。さらに関外四カ郷を対象に文久三年に銀預札、元治元年には銭百文札・五百文札・一貫文札が発行されている。

 佐土原藩では、万延元(一八六〇)年に領内産物の一手買入れによる大坂販売を企図して御内用方が設けられ、大坂や本藩などから調達した資金により米・大豆を買い入れ大坂に廻漕して利益を得た。楮皮買上げのため楮本銭が増発され、安政五年には小銭不足を理由に四十八文札と二十四文札が発行、万延元年には新紙幣三万両が発行されるなど乱発されたため貨幣価値は暴落した。明治元(一八六八)年までの発行額は二九三万貫文におよび、領内では物価が高騰して経済が混乱した。

 廃藩後政府は藩札を政府貨幣と交換したが、信用が低く価値が下落していた明治四年七月の相場での交換であった。
「宮崎県の歴史」坂上康俊、長津宗重、福島金治、大賀郁夫、西川誠 P245、P246、P264、P279

・鹿児島
 薩摩藩は、三島(奄美大島、喜界島、徳之島)から大坂相場の約四分の一の価格で黒糖を購入するだけでなく、三島に支払う代金は現物支給とし、鰹節は大坂相場の九〇倍など著しい高値で販売された。さらに天保十年には三島での貨幣流通をいっさい禁じ、「羽書」という証書をあたえ、売買・賃貸に流通させ、徹底的に全余剰の収奪をはかった。こうしたきびしい専売体制は、藩とむすびついた島民とそうでない島民とのあいだに貧富の差をうみだし、なかには家人という債務奴隷におちいるものもあらわれた。
「鹿児島県の歴史」原口泉、永山修一、日隈正守、松尾千歳、皆村武一 P216

 なお、近世の甲斐では甲州金(甲金)と呼ばれる地域貨幣が流通している。
追記:「山梨県の歴史」飯田文弥、秋山敬、笹本正治、斉藤康彦 P131



 「県史」シリーズにすべての藩札のケースが記されているわけではないかもしれない。しかし、こうしてみてみると、藩札はその価値を著しく低下させて終わるケースが多いように思われる。秋田藩のように銀貨と交換できる兌換券の場合でも、信用がなく藩札として流通せずに兌換が求められてしまった。成功例としては姫路藩の藩札があるが、江戸で人気のあった木綿の生産高に応じて発行され、しかも江戸で正金銀が獲得されているなど財政の裏付けがあったことが成功した秘訣だろう。しかし、福岡藩のように流通を活発にし、「出口戦略」まで考えられていたのに失敗した「御救仕組」の例もある。


 日本銀行券は中央銀行の負債であり、日本政府に直結するものではないが、それでも政府債務が積みあがるなかでの金融緩和は通貨の信用が低下する懸念がある。寛政期の高松藩は藩札の信用低下を恐れてその流通量を減らす方針をとったぐらいである。2月20日に、政府の経済財政諮問会議で日銀の黒田総裁が日本国債の将来的なリスクについて言及したにもかかわらず、議事要獅ゥら削除されていたことが報じられた。日銀は国債を大量に保有しているので、日本円の価値にも影響を与えかねないと思う。

追記:
・丸亀藩の「封札」は、「預金封鎖」と同じ効果をもたらすのではないだろうか?

・『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』(磯田道史著 新潮新書)には、『金沢では金札での家禄支給が決まると「金札にわかに下落いたし」(①明5・8・28)、金札一両が一九七、八匁まで落ちた。また、米も諸物価に比べて暴落した。士族の家禄は過去三ヶ月の米価を基準に金札をまぜて支給されたから、相対米価の下落は大打撃であった。野菜魚類・大工作料・日雇賃金は変わらないのに、米価だけが下がった。(中略)米価が四割下がったのに、諸物価はそのままであったという。米は年貢の側面をもつ特殊な商品だったから、藩体制が崩壊すると価格が不安定になった。従来、藩庁・士族が消費していた年貢米が、どっと米穀市場に流れ込んだ。金沢のような日本最大級の城下町では、とくに米の値崩れが激しかった。米価だけが四割に下落すれば、士族の実質収入は四割に低下する。これに加えて、家禄として渡された金札も相場が下落したのだから、まさに泣きっ面に蜂であった』(p185、186)と書かれている。体制が不安定化すると、貨幣価値が下落する例と言えよう。

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・先週の円安を要因とする値上げ発表等記事
J―オイルが食用油値上げ。2015/2/17 日本経済新聞 朝刊
輸入の白身魚、軒並み上昇、銀ダラやメロ、卸値3~4割高、中国などの引き合い強く。2015/02/17 日本経済新聞 朝刊
景況感「良い」13%、県内中小、原材料高、7割が実感、中央会調べ。2015/2/18 日本経済新聞 地方経済面 長野

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