コロナ重篤化から全身麻痺

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転院

2022-07-31 17:01:00 | 日記
9月24日にリハビリに強いという病院の急性期に転院が決まり、ストレッチャーに乗せられて先生と母と共に病院へと運ばれた。

その病院でも個室で、やはり心配なのは看護師の対応だった。
何せ体が動かないのでしょうもない事でナースコールをしてしまうからだ。
担当してくれる看護師は優しく、ナースコールをするとすぐにやってきてくれて、要望にも応えてくれた。

ここなら安心して入院出来る。安心してリハビリが出来る。
そう思っていた数日後、若い看護師から衝撃の言葉を頂いた。

その日も頭が痒く我慢が出来ずナースコールをしたのだが、やって来た若い看護師が一言「私たちは貴方の奴隷じゃない」と怒り口調で告げられた。
その言葉にショックを受け、電話で親に相談した。
電話はスマホをベッドサイドにセットして「heySiri」で通話は出来た。
その言葉に母も流石に怒り、病院にクレームの電話を入れたが、本人から「そんな事言った覚えがない」との事。
完全にシラを切られた。

その日からはその看護師が部屋に来るたびに重苦しい空気が流れ最悪な日々を過ごした。

この手が動くだけで全てが解決するのに。
未だに曲がらない肘を恨み続ける。

そんな日々に転機が訪れたのは転院してきてから一月が経った頃だ。

左手の肘が少しだけ動く様になった。
力をふんっと入れると手をお腹の上に乗せれる。そのまま顔まで手を伸ばす事が出来た。
頭には届かないが、顔の痒いのはこれで自分で掻く事が出来る。本当に嬉しかった。
その事をすぐに母親に電話して伝えた。
母も凄く喜んでくれた。

肘が何とか動く様になってから数日後、急性期から今度は回復期に移る事になった。
また階層が変わる。

そこでも個室で、急性期と違うのは、ここには介護士が数人居た。
ナースコールをすると看護師か介護士のどちらかがやって来る。
介護士には男性も多く、今まで女性看護師が三、四人がかりでやってた事を二人でこなしてくれるので物凄く頼もしかった。
オムツ交換も看護師は2人がかりだったが、男性介護士は1人でこなしてくれる。

リハビリも急性期とは違い、一日三回もあり、土日も休む事なくリハビリは行われた。
この頃にはご飯も点滴ではなく、五分粥程度の物が出される様になった。
勿論握力もほぼ0だし、肘も対して曲がらないので全介助だったが。

それでも口からご飯を食べれるのは人間らしくなったと嬉しかった。

ただ、看護師や介護士によって食べさせ方に性格が出るのが一番辛かった。
この人は綺麗な食べさせ方をするから良いって人と、雑な食べさせ方をする人も居たりで少しストレスを感じた。

お風呂はいつも三人がかりでストレッチャーに乗せられてマグロを洗うかのように済まされる。
しかもそのストレッチャーが身長181センチある自分には狭すぎて、足が柵に当たって痛い痛い。
尿道カテーテルもたまに引っ張られてアソコに激痛が走るしで、お風呂自体は気持ちよかったが恐怖の時間でもあった。

この頃のリハビリは起立台と言って、台の上に寝かせられベルトを閉めてから機械で真っ直ぐに立たせられるというものだった。
約70度で恐怖を感じ、しかも降ろした脚が物凄く痛くて途中でいつもギブアップしていた。

右手の肘も左程ではないが曲がるようになり、長年愛用していた孫の手を使い頭を掻ける様になった。

ただ、長いこと入院生活していて、やれる事が増えると他に問題が起きる。

寝る時の足の体勢が悪いと足に(特に右足)激痛が走り、眠れない。
その都度、ナースコールをして足を組み替えたり位置を動かしたりするのだが、一度では納得のいく位置には来ず、何度も看護師を呼んでは呆れさせた。



最初の一歩

2022-07-31 15:03:00 | 日記
目を覚ましてからと言うもの体は首から下は一切動かずで痒い所があっても触れることすら出来ない。
そんな日々が一月程経ったある日、僅かな光が自身に差し込んだ。

体が動かないので、体は褥瘡にならないように3時間置きに左右に向けられていた。
その時に手の位置をクッションの上に置いて貰うのだが、左を向いてる時に奇跡が起こった。

体は動かないものの意識は普通にあって、暇な時間を日々過ごしていたある日、左向きに体を向けられた時に、クッションの上の左手に意識を向けた。

 「動け!動け!」

そう念じて左指を一生懸命に動かそうとする。
そう簡単に動くものではないが、一瞬動いたような気がして、さらに強く念じて動かそうとした。

左手の人差し指がピクリと反応する。
それを遠くから見ていた看護師が駆け付けてくれて一緒に喜んでくれた。

人差し指だけだけど、体が動いた事は自分自身にも励みになった。
すぐに医者も駆け付けてくれて、人差し指が動いたのを確認して喜んでくれた。
リハビリの先生は、「もう一切動く事はないんじゃないか」と思ってたらしい。

この奇跡を皮切りに、二月後には手首まで動いた。

肘さえ曲がれば顔を掻けるんだと思い必死に肘を動かそうとするも、肘の難易度は高く中々曲がらない。

そしてもう一つ出来るようになったのが、体をぷるぷると揺さぶれるようになった事だ。
何の役にも立たない事だが、何も出来ないよりかは断然良い。

だが相変わらず頭や顔は痒いし、掻いてもらう時は看護師を呼ばないといけない。
いつになったら自分で処理できるのやら。

二月経った頃、部屋の階層が変わると言う事で、コロナ病棟だった階から別の階に移った。
相変わらず手は手首までしか動かず、手のひらを広げようとすると痛みが走る。
リハビリの先生に無理矢理手のひらを広げさせられたり、足を伸ばされたりして毎日激痛に耐える日々が続いた。
そしてリハビリの先生と看護師の5人がかりで車椅子に乗せられる特訓が始まった。
座る練習も兼ねて毎日30分車椅子に座らせられる。
まだ手首しか動かないのにだ。

これが結構キツくて座った時に目眩のようなものを感じるし、座り続けるのにも疲労を感じる。

そんなリハビリが続く中、喉の気管切開のチューブを外す時が来た。
これがないと呼吸が出来なかったのだが、そろそろ外しても大丈夫だろうとの事だった。
そしてスピーチカニュウレの装着。喉の管を外してスピーカーの様な蓋を被せる事でようやく口パクから解放され喋る事が出来るのだ。

久しぶりに声を出す喜び。
でも何か違和感がある。
呂律が全然回らない。

暫くお喋りをしなかったからか、感染症の障害からか舌の筋肉が衰えてしまっていた。
一歳時の赤ちゃんの様な滑舌で医者に「ありがとうございました」と伝える。

久しぶりに母にも電話してもらった。
声が出せる事と、言葉で感謝を伝えられる喜びから涙が溢れた。

でもまだ喉は穴が空いたままだ。痰が溜まりやすいせいで、定期的に痰抜きをしないといけない。
それも度々ナースコールをしなくちゃいけなくて、その度にこんな事で呼んですみませんと申し訳なくなる思いになった。

アソコの手術等を経て、9月24日にリハビリに強い病院に転院する事になった。

そこでもまた色んな事件が起きるのだが…




膀胱の手術

2022-07-31 09:24:00 | 日記
尿道カテーテルは清潔を保つ為月に一度交換しなければ行けないのだが、この日はまだ一月も経っておらず、確か二週間くらいだった。看護師2人からそろそろ交換しますねと言われ体の動かない自分はそれに従った。

交換するのはまだ一年目だと言う新人ナース。
カテーテルを抜いたまでは良かった。
だが、新しいカテーテルを挿入する時に変な方向に先が向いたたらしくアソコに激痛が走った。
それは例えようがないくらいの痛みで、体が動かない自分でも体を丸めたくなるくらいの激痛だった。
カテーテルを一旦抜いた後、おしっこが出るかの確認のため暫く待った。
この間もアソコはじんじんと痛む。

そして尿意を催しオムツでおしっこをすると血が溢れているではないか……
オムツが真っ赤に染まり看護師が何人も見にくる。
先生がやってきてカテーテルをちゃんと挿入してくれたのだが、カテーテルを伝わってずっと血は流れていた。
次の日泌尿器科の先生の診察を受ける。

この日は泌尿器科の先生が何時間も診てくれるのだが、血は一切止まることはない。
カテーテルも何度も抜き差ししては、尿道に注射器のようなもので抗生剤を流し込んでは抜いて行く作業を繰り返された。
何度も尿道にカテーテルや注射器を刺され痛みに悶えるも、喋れない動けない自分には何の抵抗も出来なかった。

その日は一旦落ち着き、先生は帰って行った。
ところが、夜になるとカテーテルをしていると言うのに膀胱がパンパンに膨れ上がって尿意が爆発しそうな感覚を覚えてナースコールをして口パクで必死にそれを伝える。
どうにか伝わったようで夜中にも関わらず泌尿器科の先生が駆け付けてくれた。
またカテーテルを抜き、注射器のようなものを尿道に差し込む。何かを注入すると膀胱がパンパンになる。そしてそれを抜く。
その繰り返し作業が二時間ほど続いた。

本当に地獄だった。あの新人ナースを心底恨んだ。

朝を迎え、昼間は外来の患者を対応しないといけない先生は昼間は一切来てはくれない。
が、膀胱がパンパンになる症状はそれでもやってくる。
外来診察は17時に終わる。来るならその後だと我慢し続けてまたもや一晩中先生の治療が始まる。

何故か治る気配はない。膀胱はすぐに爆発しそうな感覚になるし、血は止まらない。
次の日本格的な治療をしようと提案された。
それで治るならと期待して次の日を迎える。

麻酔も何もないアソコの治療が始まった。
今までに見たこともない長い針のようなものを尿道に差し込み、中を洗い流す作業が一時間程続いた。
痛みにもがき苦しみながらそれに耐え、作業が終わるのを唇を噛み締めながらまった。

「これでよし」

先生のその声が聞こえ、ようやく終わったのを確認して、安堵感から口パクで「ありがとうございます」と言った。
これでこの苦しみから解放される。夜もちゃんと眠れるんだとそう思った。

ところが、膀胱の爆発はまたやってきた。勿論血もまた出ているようだ。

夜中にまた先生を呼び出してもらう。
この症状を診て、先生は頭を捻り続けた。
そして出た言葉は「明日の夕方手術をしよう」だった。

今度は本格的な手術らしい。麻酔も全身麻酔で眠って起きたらもう終わってるから安心だと言う。
でもそれが始まるのは夕方16時。
その間、膀胱の爆発はやってきて我慢できず何度もナースコールをした。でも看護師には何もできず、先生を呼ぶことも出来ない。

14時頃4ヶ月ぶり程に母親に会った。
手術があるからと呼び出されたらしい。
4ヶ月振りに見る母は前よりずっと痩せていた。
「頑張ってね」と言われたが、お母さん貴女もちゃんと食べて頑張って下さい。そう思った。

16時半を大きく過ぎた時間に手術はようやく始まる。
酸素マスクを付けられ点滴を流す、気付いたら眠っていた。
次の瞬間起こされた時には手術は終わっていた。
訳三時間ほどの手術だったらしい。
泌尿器科の先生の説明を受ける。
尿道からカメラを入れて怪しいところを焼いたのだが、中々血は止まらずカメラを色んな方向に動かすと膀胱とアソコの入り口に大きな傷があったらしい。
だからもう大丈夫だと言ってくれた。
まだ少しカテーテルからは血が出てるが手術前に比べて色も薄くなってきてるとの事。
膀胱の爆発は確かにもう来てない。
ようやく安心して眠れるんだと思ったら急に眠気が襲ってきた。





そして月日は流れ…

2022-07-30 19:13:00 | 日記
一ヶ月後目が覚めると首から下が一切動かない状態に。
まだこの頃は夢と現実がごちゃごちゃで多分半分眠った状態だった気がする。

夢の中での自分は田舎町で一人暮らししてて、大きな屋敷の美女に一目惚れをしてそこに忍び込むも屋敷の縁側で体が動かなくなりそこの父親から折檻を受けるという夢や、沖縄の診療所でそこの医者に殺されかける夢なんかを見た。

体が動かなくて医者5人くらいに棺桶に入れられて火葬場に詰め込まれ、そこで耳元から大きな音や音楽が流れる。音楽は蛍の光等で、暫く騒音が鳴り響いた後、急にシーンとしたと思ったら機械の女の人の音声で「貴方の人生は終了しました」と言われて、火葬場の火が点火し燃える中、熱くても叫ぶ事も出来ず燃えていった…
目が覚めると砂漠の上に立っており、物凄く喉が渇いている。目の前を女の人が通りかかったので、「すみません。水を頂けませんか?」と声を掛ける。
女の人は無表情で「水はありませんけど、あちらの方向に川がありますよ。けど、行くことはお勧めしません」的な事を告げて去って行った。
教えられた方向に足を向けると、案外すぐに川へと辿り着いた。砂利のある大きな川だ。
ふと後ろを振り返ると、先程まであった砂漠が真っ暗闇になっていてもう戻ることはできない。
向こう岸は暖かそうな光が差し込んでいて、そこに吸い込まれるように川へと足を踏み入れた。
その時「こっちへ来るな」と死んだ父親が向こう岸からそう叫んでいた。
驚いて何度も顔を確認し、「でもお父さんがそこにおるならそっちに行きたい」と告げてまた一歩足を踏み入れた。
「いいからこっちに来るな戻れ」と父親。
「帰り道が分からないからどうすればいいか分からない」と泣きながら告げると。
振り返って歩けばいいと…
真っ暗闇の中を勇気を出して歩くと今度は親戚の叔母さんの家で目を覚ました。
またもや体は動かない…

そんな夢と現実がごちゃごちゃになってはっきりと現実だと理解したのは世間がオリンピックに沸いていた頃だった。

首から下が動かないし、身体中に管が生えてて喉には穴が開いてて呼吸も機械の助けがなければ出来ない状態だった。

勿論喋る事も出来ない。
栄養も点滴で補充され生きてる意味あるのかとさえ思った。
何が一番辛いかって?痒みを伝えるのが一番難しく、辛い。
頭が痒い。背中が痒い。顔が痒い。
全部口パクで伝えるが、看護師によって掻いてくれる時間の長さも強さも違う。
まだ痒いのに「はい終わり」って何処かへ行ってしまうし、また呼ぼうと口をパクパクしてると「また?」って呆れられる。
だって痒いもんは痒いんだよ…貴方だって痒かったら搔くでしょ…
自分はそれが出来ないから看護師に訴えるんだよ…それを面倒臭がらないで欲しい。

トイレ事情も色々あった。
小の方は最初はオムツだったが排尿コントロールがうまく出来ず仕方なくカテーテルを入れた。
でも大はそれが出来ず、オムツでの排便となった。
首から上は動くから目が覚めて一ヶ月後程にナースコールを頬に当てると反応する機械を付けてくれて、排便するとナースコールで看護師を呼ぶ。
2人がかりでお尻を洗ってオムツを変えてくれるのだが、看護師によっては「少々お待ちください」と言い残し、四時間以上も放置される事もあった。
排便の気持ち悪さから何度もナースコールをすると「うるさい。わがまま言うな」と言われて何も出来ない自分自身に酷く落ち込んだ。
暫くわがまま言うなの言葉が頭から離れず、看護師を呼ぶ事を躊躇った。

そして新人ナースの失敗に大問題が起こった。








ホテル療養

2022-07-30 15:16:00 | 日記
保健所からの迎えが来て小さなワゴン車に乗せられホテルへ出発。

他におじさんと若い兄ちゃんが乗っていた。
運転手はもちろんの事、皆んな終始無言のまま、渡された紙に必要事項などを記入して到着を待った。

ホテルに到着後は名前を呼ばれた順に裏口からホテルに入り、そこでホテルでの生活事項を告げられて鍵を渡され一人で部屋へと行かされた。

部屋内は簡素な物で、ベッド一つと机一つと小さなテレビ一台と冷蔵機能が悪い小さな冷蔵庫一台があった。
左側の扉を開ければ、またもや小さなお風呂とトイレと洗面所。
そこに歯ブラシやシャンプーなどを置いてホテル生活を始める準備をする。

早速到着して一時間くらいで夕御飯のチャイムが鳴る。
放送が終わると、部屋を出て所定の場所へと弁当を取りに行き部屋に戻る。
弁当の他にもお茶や水、アクエリアスなどが置いてあり一応飲み放題ではあるらしく、お茶と水を取って部屋へ戻った。

病人が食べるには如何なもんかと疑問を抱くほどの油まみれの弁当はコンビニ弁当よりかは豪勢であり、味もそこそこ美味しくはあったが、ちょっと量に物足りなさは否めない。
自宅から持ってきたカップラーメンを作りそれを頂きながらスマホを弄って友達にホテル生活についてLINEしたり、姉や母に早速の愚痴を聞いてもらったりと初日はまあ何ともなく終わった。

次の日朝食を取りに行き、それを貪り食っていると9時の放送で酸素濃度を測る時間と言われる。
酸素濃度が95%以下になると事務所に電話しなくては行けないらしく、早速酸素濃度93%と表示され、電話をするが、返ってきた言葉は「大きく深呼吸してください。あ、上がりましたか?今何%ですか?96%ですね?なら大丈夫です」との事…
いや、電話切った後また測ったら92%まだ下がったんですけど、本当に大丈夫ですか?

ゴミ捨てやお風呂掃除、洗濯などは自分自身でしなければいけないのだが、3日目辺りから胃痛を感じ始めてそれすら面倒になってきた。
鎮痛剤を貰ってなんとか痛みに耐えてたが、明らかに痛みの頻度が上がり始めている。
鎮痛剤は六時間置きにしか貰えず、友人にこっそり差し入れとして鎮痛剤を持ってきてもらい、三時間置きくらいには飲んでいたと思う。

4日目、昼ごはんの弁当を開けた時、あの油まみれのの匂いが一切感じ取れない。
おかしいと思い何度も鼻を近づけては弁当の匂いを確かめた。
味は普通にするのに、匂いが遠くに感じる。
何か匂いが強い物を嗅いでみたいと、持ってきたコーヒーの粉に鼻を近づけると、物凄く悪臭がする。
例えて言うなら強烈な薬品の匂い。
嗅覚を失ったのは結構ショックだったが、まだ味覚はあると自身を納得させる。

その次の日に味覚もなくなるのだが……

嗅覚も味覚もなくなり、胃痛も鎮痛剤では治らなくなり、酸素濃度も80%を切った時、ようやく医者の診察を受けれる事になった。

診察の時間に部屋の扉のノックが鳴る。
白い防護服を着た男女のどちらなのか分からない人が数人入ってきて、二、三質問して出て行った。
診察とは一体何なのか……

その日の夜熱と胃痛と酸素濃度の低さからベッドから動く事が出来ず、朦朧としている中スマホの画面だけ眺めていた。

そして次の日の朝に電話が鳴り、病院へと移る事が決まった。

病院に行けば暫くお風呂に入らないだろうと思い、無理してお風呂に入った。
途中溺れかけたことも書いておこう……

昼過ぎに迎えが来て担架に乗せられサランラップのような物で周りをぐるぐる巻きにし救急車に乗せられる。

着いた先は街のど真ん中の総合病院。三年前にバイク事故でも入院した場所だ。

病室は四人部屋で入院してきて早々斜め前のお年寄りが明日退院ですねと羨ましいお言葉を頂いてた。
早く退院したい。

ここからは記憶が曖昧になってきてるので、少し時系列がおかしくなってるのは申し訳ない。

入院して2日目くらいには鼻に酸素チューブを入れられて、その次の日には酸素マスクに変わっていた。
看護師が言うには、2週間くらいで退院ですよと言う。
長い一生の間の2週間くらいドンと来いやと意気込んだのも束の間、次の日に告げられたのは「コロナ肺炎と普通の肺炎どちらにもかかっています。このままでは助からないので、エクモに入りましょう」だった。

別室に呼び出され医者と2人きりになり、誓約書にサインをする事に。マジマジと誓約書を読み上げていくと、「一週間後には死んでるかもしれません」とあって、心臓が大きく鼓動を打った。

医者からは「最後に何かしたい事はありますか?」と聞かれる。
最後って何?
しかもこれからエクモに入るのに、やりたい事なんてたかが知れてる……
旅行だってしたいし、家族にも会いたい。美味しい物だって食べたい。
けどここで今すぐ出来ることを選択しなければ行けなくて、考えた挙句、「コーラが飲みたい」だった。

まさかのコーラ。
何でそんな事言ったのか未だに謎だが、その時は多分どうしても飲みたかったのだろう。
母が連絡を受けてコーラ持参で最後の面会をした。
医者からは二口だけと言われたコーラもこっそり三口飲んでやった。

そして面会も終わり、ベッドへと横たわる。
一週間後、死んでるのか生きてるのか、なぜか死んではないと思いながらそのまま意識を失った。

そして一ヶ月が経ち、目が覚める。