arena8order Δ慧會隴

亂鷓鸚 吁咤 帝頭 Long-Shout Woo-t.a. Earof.

2.華喃人=人喰い…後悔しない様に御確認下さい。事実です。

2012-02-26 11:07:14 | 日記
[編集]各地のカニバリズム

※以下、狭義にはカニバリズムの定義に該当しないものも含まれる。

[編集]オセアニア

イースター島では1600年頃から1700年頃にかけて人口が約70%減少した。その要因として現地住民の人為的環境破壊(モアイ像作成のための森林伐採など)があげられるが、結果、野生の動物の肉の供給源が失われることになり、最終的に人肉を食すようになったといわれる。なお、当時のゴミの集積地跡からは人骨が発見されている[1]。

またネルソン・ロックフェラー(当時ニューヨーク州知事)の息子で人類学者のマイケル・ロックフェラー(Michael Rockefeller)が1961年にニューギニアの奥地で原住民に殺され食べられたと報じられた[2]。

[編集]ヨーロッパ

スペイン北部のアタプエルカ遺跡で発掘された「最初のヨーロッパ人」の遺骨から、この先史人類たちが人肉を食べており、しかも、とりわけ子どもの肉を好んでいたことが明らかになった。遺骨などの分析によると、食人は、儀式としてではなく食用で行われていた。当時、食料や水は豊富にあり、イノシシやウマ、シカの狩猟も可能であり、食料不足で食人が行われたのではなく、敵対する相手を殺し、その肉を食べたと言われている[3]。

のちに、ヨーロッパではキリスト教が広まった。キリスト教では人肉食は強い禁忌とされていたと現代のキリスト教関係者は主張するが、実際には戦争、飢饉、貧困、宗教的理由でカニバリズムは広く行われた。

第1回十字軍において、十字軍の軍勢がシリアのマアッラを陥落させた際(マアッラ攻囲戦)に、人肉食が行われたという記録が残っている[4]。アラブ、フランク(西欧)双方から同内容の証言が出ており、信憑性が高い。当時、十字軍の食料状況は非常にお粗末で、現地調達の略奪の一環として現地住民を殺戮し、その肉を食べたとされる。

1274年にフォッサヌォーヴァ修道院で死んだトマス・アクィナスの遺体も修道士たちによって食されている[5]。ホイジンガによれば、修道士たちは、当時高価であった聖遺物の散逸を恐れ、師の遺体を加工保存し、頭部を調理したとしている[6]。

また、1315年から1317年にかけての大飢饉の際、人肉食があったと言われるが、それがどの程度のものだったかについては議論が分かれている。また近世以降、船の難破による漂流中に人肉食が行われたという事例が時折記録されている。

15世紀のスコットランドにおいて、ソニー・ビーンとその家族は山岳を通過する旅行者達を食べて暮らしていたという記録があるが、その記録は19世紀以降のものであり信憑性は低い。

肉を食べた訳ではないが、1805年のトラファルガー海戦で戦死したイギリス海軍のホレーショ・ネルソン提督の遺体は、腐敗を防ぐためラム酒の樽に漬けて本国に運ばれたが、偉大なネルソンにあやかろうとした水兵たちが盗み飲みしてしまったため、帰国の際には樽は空っぽになっていたという。この逸話からラム酒は「ネルソンの血」と呼ばれることがある。

「性的なカニバリズム 」の項のフリッツ・ハールマン、ゲオルグ・カール・グロスマンなどの犯行は行われていたのは第一次大戦敗戦後の後遺症下にあったドイツである。極度のインフレに襲われていたドイツでは慢性的な肉不足となっており、その中で行われた二人の犯行は性的なものがメインでありながら、若干の経済的目的の側面も持ち合わていせた。その経済的目的に特化したカール・デンケは人肉を市場に流通させるための商品開発における過程で犯行が明るみに出て逮捕されている。三人の犯行は戦後の浮浪者に溢れていた当時のドイツにおいて、いずれも数十人単位の犠牲者が出るまで発覚しなかった。

その後ドイツでは第二次世界大戦中に強制収容所 (ナチス)内で収容者が人肉を食することがあったことがヴィクトール・フランクル著『夜と霧』に記されている。

[編集]アジア

飢饉や戦争における人肉食は他の地域と変わらないが、宗教儀式に人肉食が利用されるケースが特筆される。

ヘロドトスは『歴史』の中で、アンドロパゴイという部族の食人の風習や、メディア王国の王アステュアゲスが将軍ハルパゴスにその息子を食べさせた逸話を紹介している。これらは伝説的ではあるが、ヨーロッパの視点からのアジア人(をはじめとする異民族)の「食人」に関する記述である。

インドではシヴァ教の一派であるアゴーリ(en)の行者が人肉食を行う。彼らは神通力を得るためにガンジス川から水葬遺体を引き上げ、その肉を食する。近年、撮影が行われた[7]。社会的行為でないケースとしては、2009年にハリヤーナー州で火葬場の職員らが遺体の焼肉で晩酌をするという事件が起きている。

チベットでも、1930年代にシャンバラを標榜する宗教団体が信徒を御供にして人肉食儀式を行っていたという報告がある[8]。

[編集]日本

日本[9]には綏靖天皇が七人の人を喰ったという故事(『神道集』)をはじめとして、伝説の酒呑童子説話中の源頼光一行や、安達原の鬼婆の家に立ち寄った旅人等、説話にカニバリズムが散見される。

「遠野物語拾遺」第二九六話と第二九九話には、遠野町で5月5日に薄餅(すすきもち)を、7月7日に筋太の素麺を食べる習慣の由来として、死んだ愛妻の肉と筋を食べた男の話が記録されている。また、中国のカニバリズムにある割股の話は、日本にも類話が見える(『明良綱範』)。

『信長公記』によると、戦国時代に鳥取城が兵糧攻めに遭い、城の兵たちは草木や牛馬を食べ尽くした末、痩せ衰えた人間を銃殺して食い争ったとある[10]。

随筆『新著聞集』では、元禄年間に増上寺の僧が葬儀にあたって死者の剃髪をした際、誤って頭皮をわずかに削り、過ちを隠すためにそれを自分の口に含んだところ、非常に美味に感じられ、以来、頻繁に墓地に出かけては墓を掘り起こして死肉を貪り食ったという話がある[10]。戊辰戦争の折には幕府側総指揮官松平正質が敵兵の頬肉をあぶって酒のさかなにしたといい、また薩摩藩の兵が死体から肝臓を取り胆煮を食したという[11]。

確実な記録には江戸四大飢饉の時に人肉を食べたというものがある。また天明の大飢饉の際には1784年(天明4年)弘前で人食いがあったと橘南渓が『東遊記』で述べている[12]。

[編集]薬としての人間の内蔵

人間の内蔵が、民間薬として食されていたという記録がある。

江戸の獄門で処刑された死体で日本刀の試し切りを職とした山田浅右衛門は、死体から採取した肝臓を軒先に吊るして乾燥させたものを人胆丸という薬として販売したとされる。当時は人胆丸は正当な薬剤であり、山田家は人胆丸の売薬で大名に匹敵する財力を持っていたと言われている[13]。

1870(明治3)年4月15日付けで、明治政府が人肝、霊天蓋(脳髄)、陰茎などの密売を厳禁する弁官布告を行っている[14]。しかし闇売買は依然続いたらしく、度々事件として立件、報道されている(東京日々新聞等)。作家の長谷川時雨は明治中期の話として「肺病には死人の水-火葬した人の、骨壺の底にたまった水を飲ませるといいんだが…これは脳みその焼いたのだよ」と、「霊薬」の包みを見せられて真っ青になった体験を記している[15]。

昭和40年代まで全国各地で、万病に効くという伝承を信じて、土葬された遺体を掘り起こして肝臓などを摘出して黒焼きにして高価で販売したり、病人に食べさせたりして逮捕されていたことが新聞で報道されている[16]。

このような人間の内蔵が薬として利用されていたことについては、いまだ明らかにされてはいないが、曲直瀬道三の養子曲直瀬玄朔は医学書『日用食性』の中で、獣肉を羹(具がメインのスープ)、煮物、膾、干し肉として食すればさまざまな病気を治すと解説しており、肉食が薬事とみなされていたことを示している(日本の獣肉食の歴史参照[17])し、また漢方薬(東洋医学)においては、熊の胆は胆石、胆嚢炎、胃潰瘍の鎮痛、鎮静に著効があるといわれ、金と同程度の価値がある高価な薬品だった。江戸中期の古方派の医師後藤艮山は熊胆丸を処方して手広く売り出したといわれる[18]。また中国やインドからこのような薬学的な考えがつたわったともされ、仏教説話などにも薬事的な人間の内蔵の摂取について記録がある。

また現在でも胎盤が健康や美容にいいとして世界各地で食されている(胎盤#産後の胎盤の利用を参照)。

[編集]太平洋戦争中

また、太平洋戦争中に起こった人肉食事件(通称ひかりごけ事件)は日本中を揺るがす大問題に発展した。 太平洋戦線の島嶼等(インパール・ニューギニア・フィリピン・ガダルカナル等)でも、補給の途絶に伴って大規模な飢餓が発生し、しばしば死者の肉を食べる事態が発生した。1944年12月にニューギニア戦線の日本軍第十八軍は「友軍兵の屍肉を食す事を罰する」と布告し、これに反して餓死者を食べた4名が銃殺されたという。

奥崎謙三は映画『ゆきゆきて、神軍』で、上官が部下を処刑して糧食にしたと主張している。また、ミンダナオでは1946年から1947年にかけて残留日本兵が現地人を捕食したとの証言があり、マニラ公文書館に記録されている[19]。

なお連合軍兵士に対する人肉食もあったとされるが、多くが飢餓による緊急避難を考慮され、戦犯として裁かれることはなかった。ただし、殺害した米軍捕虜の肉を酒宴に供した小笠原事件(父島事件)は、関係者がBC級戦犯として処刑されている。罪状は捕虜殺害と死体損壊であった[20]。

[編集]骨かみ

なお、葬儀の場面でお骨を食べる社会文化的儀礼または風習としての「骨かみ」は、現在も残っている。俳優の勝新太郎は父の死に際して、その遺骨を「愛情」ゆえに食したと、本人が証言している。いわゆる「闇の社会」では骨かみの特殊な習俗が継承されているとの推測もある[21]。

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