【阿多羅しい古事記/熊棲む地なり】

皇居の奥の、一般には知らされていない真実のあれこれ・・・/荒木田神家に祀られし姫神尊の祭祀継承者

付記2a:おや、まだ居たのかい?

2024年12月10日 | 歴史

「また、来ると言うんだが・・・」曾祖父が重苦しい口調で呟いた。
つい数日前に、皇太子妃美智子さんが結婚の挨拶に来たばかりである。一般人と同様、親戚になる家や関係者の家へ挨拶回りをしたのだ。それなのに・・・今度はいったい誰が来るのか、と私が訊くと、高松宮妃徳川喜久子だという。「でも、喜久子さんは皇太子の叔父嫁でしょう。普通なら両親が挨拶に来るところなのに、叔父嫁が来るというのも変な話ですね」 すると、曾祖父は「お爺さんにも判らん」と首を振った。
 
 
江戸時代末期に先祖が開墾したという土地で百姓をしている我が家には、世古(せこ)が集まる座敷はあっても、皇族を応接するような客間が無かった。そこで、誰が言い出したのか、郷の外れにある神社で一行をお待ちすることになった。当時、私はまだほんの幼児だったが、荒木田神家の祭祀継承者の一人だったので、いつものことだが一張羅の着物を着せられて、神社の境内の真ん中に立たされた。初夏の日差しがきつい昼中、周囲の木々の影は短く、私の足下までなかなか伸びて来なかった。
 
 
その日は、最初から何もかもが違っていた。我々が神社に到着してからかなり長い時間が経過しても、宮内庁から連絡が無かった。高速道路が無い時代に一般国道を乗用車で来るのだから、幾分の誤差は已むを得ないだろう、と我々は辛抱強く待っていたが、太陽が昼時に掛ってくると、さすがに後方の木陰で待機していた親族の間から、「いやに遅いな」という声がひそひそ聞こえ出した。
 
 
ようやく表の道路で車が停まる音が聞こえた。一同が出迎えるようにそちらを向くと、どういうわけか、いつもの黒塗りの公用車ではなく、一般の白い乗用車が停まっていた。運転席に座っているのは皇宮警察の制服を着た中年の男だった。しかし、助手席には誰もいない。運転手が一人と、後部座席にもう一人・・・ 車中の人はなかなか降りて来なかった。私は顔を伏せて、またじっと待った。理由は判らなかったが、降りて来るまで待たなければならない。
 
 
とうとう痺れを切らした私が、そっと視線を上げると、いつの間にか洋装の女が車を降りており、ドアに背をもたれ掛けた格好で、煙草を吸っていた。細く長い外国製の紙巻き煙草だった。傍に立っている男がそれに火を点けてやったのだろう、銀色のライターを胸のポケットに仕舞うところだった。私は慌てて視線を落とした。
 
 
突然、「ふふっ、ふ・・・」と女の笑い声がした。車の側面にしな垂れかかっていた女の体がくねっとよじれた。男が何か叫び、慌ててドアを開けて、笑っている女を車の中へ押し込んだ。それから、また長い時間、二人は車から降りて来なかった。
どれくらい時間が経っただろう、西側の樹木の葉が私の顔面にまだらの影を作っていた。カチッと車のドアが開く音が聞こえ、玉砂利を踏む音がだんだん近づいて来て、私が重い頭を上げると、高松宮妃喜久子だった。
「おや、まだ居たのかい?」 喜久子はからかうような眼で私を見下ろしていた。
日に焼けて真っ黒い顔の子供が、銀錦の振袖を着せられて、律義に立っているのが可笑しかったのだろう。
 
 
その時、喜久子の後ろにいた男が、横へ並ぶように一歩進み出てきた。
「さっき、何か見たのかな?」 「いいえ・・・」 
私が首を振ると、「本当かな?」と男は薄く笑い、「見なかったと言っているじゃないの」と女がそれを嗜めた。
 
 
その後も、何度か、喜久子は我が家を訪ねて来た。私が待つのはいつも同じ神社の境内で、車を運転して来るのは同じ男だった。特別な用事は無いのだ。二人は解放されたドライブを楽しんでいる様子だった。
そして、最後の訪問の時、やはり玉砂利の上にじっと立っている私に、喜久子は帰り際、「ほら、お前にもあげよう」と白い粉末を投げ付けた。
慌てて着物を掃おうとした私の「手」が・・・ちぎれて、蝶のように舞った。
 
 
 
 

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晩年、敗血症に罹った喜久子は、侍女が押す車椅子に乗ったまま、所かまわず唾を吐き散らした。
自分が陥った病魔の巣に、他人をみんな道連れにしたかったのだろう。
頬をくちゃくちゃ凹ませて、口の中に唾液を溜めてから、一気に飛ばすその勢いは、この世への彼女の復讐に他ならない。
 
 
 
 
 



 


付記2b:吉武遺跡の発掘

2024年12月10日 | 歴史

「姫神」の祭祀(中国古代周王朝の祭祀)を継承した私は、我が家に遺されていた「宝物」の中に陵墓や集落跡を記した地図を見つけて、未だに膨大な埋蔵品が埋もれたまま放置されている事実に驚いた。そして、中でも斉王の印璽が副葬されているらしい九州博多の近くにある弥生遺跡について、「もう一度、調査して欲しい」と宮内庁へ願い出た。
しかし、後で考えてみると、宮内庁はとうに戦前から九州北部の遺跡を重要視しており、この時、先祖のお墓を発掘してみたいという子供の「宝探し」にも気持ち悪いほどの良い返事が来て、私が待ち焦がれる間もなく、博物館による再調査が始まった。 

 


若い皇宮護衛官二人が私を車の後部座席に乗せて、「どこまで行けるのか分からないけど、行ける所まで行ってみるね」と、まるで未踏の地へ入るかのように、舗装されていない道路を走った。

ようやく福岡県の博物館が発掘している、山麓の木立に囲まれた現場に着くと、地面は小さな畑のように四角く区切られて、1メートルほど掘り下げられた土の中に、何体もの白い人骨が横たわっていた。斉王と王妃は髪を美しく結い上げて、紀元前の中国式衣服をきっちりと纏い、頭上に様々な色の宝石を埋め込んだ金冠が置かれ、脇には同様の宝剣が置かれてあった。

 

 

ところが、そこへ、天皇裕仁が現れたのだ。裕仁はいつも従えている武官(皇宮警察護衛官)を数人連れていた。
武官らは遺跡現場に神経ガスの手榴弾を放ち、その場にいた十数人ほどの作業員らが八方へ散って逃げると、作業小屋に保管されてあった発掘品の「印璽」や「宝冠」などを強奪して行った。一人が、最後にまだ半分くらい土に埋まっていた「斉王の遺骨」に、硫酸のような薬剤を撒いた。
遺跡は埋め戻されて、「今後十年くらいは掘れないだろう」と博物館員が呟いた。

 

 

 

 

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追記: 神経ガス・サリンについて

① サリンは、警察機関などで、第二次大戦前から使用されていた。この神経性剤は、まず最初に視神経を麻痺させるので、大概は煙幕剤と同じように使われていた。私が四、五歳の頃、福岡県の博物館が弥生遺跡を発掘調査していたところ、古代中国の斉王墓から印璽などの副葬品が発見されたが、これを、天皇裕仁が皇宮護衛官にサリンを撒かせて強奪し、皇居へ持ち帰った。この成功によって、裕仁は改めて皇宮警察に「サリンを使っても良い」と認可した。

 

 

② 皇宮警察は、「皇族方は何をやってもいい。だから、お世話をする我々もまた何をやってもいいのだ」と豪語していた。そして、実際に何をやったかと言えば、麻酔銃やサリンを使って、宮内庁や皇宮警察で働いている若い女性職員を捉え、皇宮警察庁舎に監禁し、大勢で無差別に強姦したのだ。戦時中の「従軍慰安婦」と同じである。女らはすぐに腹が大きく膨れて、(医務官はいたが、慰安婦は使い捨てるものだと言って、堕胎はしなかったので)宮殿の奥で大勢の赤ん坊が生まれた。この、「要らない子供」と「失態を犯した女」を、護衛官らは次々に殺した。

皇宮警察と宮内庁は結託し、外部から皇居へ来る警察庁や内閣府、国会、裁判所、民間企業で働く者にも、「慰安婦」を提供した。生まれた子供のうち、女児のほとんどは母親同様に性虐待を繰り返されたあげく死んでしまったが、男児も「麻酔を使えば、体の何処にでも穴を開けられる」と護衛官らが言っていたので、その半数は死んでしまったと想像される。

 

 

③ 生き残った男児が中学を卒業する頃になると、「そろそろ、あいつらも片付けなければならない」と皇宮護衛官が言った。戸籍が無い子供を誰かの「養子」にして、成績が良い少数の者は警察学校へ、防衛学校へ、残りは民間企業に住込みで就職させた。その時、護衛官は彼らに「餞別」として、サリン弾一個と青酸カリを配った。

しかし、一年も経たずに、彼らは皇居へ逃げ戻って来た。一人が私を見つけて、走り寄って来た。「あんた、キリスト教なんだろ? 僕に紹介してくれないか? 行くところが無いんだよ」 これは私がまだ就学前のこと、岸信介が皇居へ来た時、私に「(統一教会のことなのだが)キリスト教なんだ、入らないかい?」と入信勧誘して、無理やり十字架を首にかけられたからだった。私は、「うちはお寺もあるし、仏教だから」と断った。

皇宮護衛官は怒っていた。「あいつら、せっかく仕事をやったのに」 私の護衛と称し、実は私が逃げないように監視していた五人ほどの男子(皇宮警察の嘱託)を、実弾で次々に撃ち殺した。誰かが最期の抵抗として投げたのだろう、サリンのガスが煙っていた。

 

 

 

 

 

 


付記2c:侍女が替わりました

2024年12月10日 | 歴史

「侍女が替わりました」
と、女官が見覚えのない若い女を部屋へ招き入れた。幼児の私が皇居へ参内した時に、世話をしてくれる侍女のことだ。
けれども、女官の背後で落ち着かない視線を床へ落としているその女は、服の上からでも分かるほど背骨が浮き出て、まるで皇居へ迷い込んで来た野良猫のようだった。
 
 
女官が出て行くと、侍女は私を鏡台の前に座らせて、髪を梳いてくれた。
櫛が私の後頭部を滑り下って、首筋に当たるたびに、私は硬直した。
「あの・・・ 貴女は、何処か悪いんですか?」
子供の愚直な質問に、女は酷く動揺した様子だった。
片手を高く張った頬骨にやって、じっと何かに耐えているかのように動かなかった。その手の甲に、青黒い静脈の網が浮いていた。
 
 
子供の恐怖は一層増幅して、次々に言葉が口を突いて出た。
「お医者へは行ったの? ・・・それで、何て言われたの?」
もし黙ったら、女の手がすぐさま翻って、自分の首根っこに掴み掛かって来るような気がしたのだ。
しかし、痩せた女は別段怒りもせず、ただ弱々しく呟いただけだった。
「行ったほうがいいかしら・・・」
 
 
女はベッドの端に座って、衣服をたたみ始めた。私は話しかける話題も無くなって、ぼんやりとその手の動きを目で追っていた。
「何を見てるの?」と女が訊いたので、「手・・・」と答えた。
すると、女は素早く手を引っ込めて、「見ないで」と言った。
 
 
突然、女がたたみかけいたブラウスを両手で皺くちゃに掴んだかと思うと、そこへ顔を埋めた。
背骨が小刻みに震え、噛み締めた歯の隙間から、ううっ、と嗚咽が漏れた。
「ねえ、治らないの? ・・・ねえ、お薬飲んだ?」
子供は自分の不安を紛らわすために無用な質問を繰り返したが、女のほうはそんな子供には微塵も関心が無い様子で、
「あの男が・・・」と、怨嗟の情話を語り出した。

 


 

 

 

 

 


付記2d:宿直(とのい)

2024年12月10日 | 歴史

神官が厭なら、女官はどうか、という宮内庁職員のいい加減な発言で、七歳頃だったろうか、数日間、後宮へ放り込まれたことがある。
女官たちと同じ、丈の長い内掛けを着せられて、五、六人の女の最後尾を歩いて行くと、神社の本殿のような、回廊で囲まれた内の一段高い位置に「寝所」があった。
正面に御簾が掛けてあるのも神社に似ているが、しかし、その奥には派手な色柄の布団が何枚か重ねて敷いてあって、まるでTVドラマに出てくる江戸城の大奥だった。年増の女官は回廊の一隅に私を正座させて、「寝てはいけません。」と命じた。夜通し、そこに座っているのが宿直(とのい)であった。

 


その夜、寝所に現れたのは三笠宮寛仁だった。
いつも暇を持て余している皇族は、私が皇居へ連れられて来ると、必ず誰かが見物に来たものだったが、大概、私は皇居に紛れ込んだ野良猫と同様、格好の憂さ晴らしの標的になる。この時も、寛仁は回廊に正座している私を発見すると、さも嬉しそうに近づいて来た。
「お前は女官になったのか?」
逆らうと何をされるか分からないので、私は無言で、首を振っただけだった。
すると寛仁は、私の髪の毛を掴んで引っ張り、もう片方の手で私の頬を撫でながら、「こうやると、どうだ?」と顔を近づけて来た。

 


私は寛仁を突き放して、逃げ出した。
他の女官を目で探したが、女らはみんな顔を伏せて、こちらを見ようとしない。
とうとう寛仁は私の内掛けを剥ぎ取り、なおも逃げようとする私の片足を掴んで、着物の裾を膝の上までめくり上げると、興奮した声で言った。
「お前、それを脱げ」
「嫌だ!」
私が叫ぶと、今度は「俺も脱ぐから、お前も脱げ」と何だかおかしなことを言い出した。まさか、これが互いにとって平等なのだ、とこの男は考えているのかしら? 小学生の私は一抹、疑問に思ったものだが、結局、悲鳴が出るに任せて、必死に暴れた。

 


子供の甲高い悲鳴に興ざめしたのだろう、寛仁は私の足を掴んでいた手を離して、機嫌が悪そうに足音荒く走り回ると、代りに若い女官を一人捉まえた。「お前でいい。来い」
その女を半裸にして、寝所の布団へ引きずって行った。

 


・・・と、ここまでは「大奥」の話と大差無いのだが、真の狂気はこの後である。
獣狗の饗宴が終って、乱れた布団に残された女がめそめそ泣き始めると、別の若い女が私の前に立って、次のように言った。
「何故、逃げたのよ。あんたが我慢すれば良かったのに。ああいう時は、黙って我慢するものよ」
この女は乱暴された女を助けようともしなかったくせに、七歳の子供に身代わりになれと言うのだった。
これが、この国の「献身の美学」というものである。

 


着替えをしている最中に、私は先ほどの女に睡眠薬の注射を打たれた。
それから、着物を剥ぎ取られ、シュミーズ姿で朦朧となったところを、宮内庁の男によって写真を撮られた。
「どうして、・・・撮るの?」
と、カメラを構えている男に訊くと、「寛仁様がお望みです」と答えた。

 


数十年後に皇居へ行った時、その時の写真を、本当に寛仁が持っていたのには驚いた。いわゆる「ロリコン」である。
「恥知らず!」と私は罵ったが、色狂いの寛仁に抱きつかれた。

 

 

 

 

 

 


付記3a:試し撃ち

2024年11月24日 | 歴史
この日は天皇に拝謁するというので、振袖を着せられた。衣がたっぷりと重なった袂を揺らして、「兎みたいだ」と私は上機嫌だった。
それを、案内役の侍従が裕仁がいる部屋へ連れて入ると、私の耳の高さまで腰を屈めて、「逃げろ」と囁いた。
「何処でもいいんだ。お前の好きな方へ行け。自由だ・・・」
 
 
しかし、この場合の「自由」とは、欧州の貴族が楽しむ狩猟の「獲物」に与えられた自由である。背後にあるドアの把手は私の頭と同じ高さにあって、一度回してみたがとても重く、幼児の握力では到底、開くはずがなかった。部屋は四角い檻であり、逃げ場を失った私は部屋の一隅ですくんだ・・・
それを見た裕仁が、「これでは面白くない」と傍にいる徳川義寛侍従に言った。
が、私が顔を上げて裕仁の面を睨んだ瞬間、銃声が鳴り響き、弾は片袖に当って、丸い焦げ跡を作った。裕仁は狂喜し、大口を開けて叫んだ、「当ったか!」
 
 
 
ところが、そこへ、一人の護衛官が走り込んで来たのだ。まだ若いその男は、普段は使用していない部屋の湿った空気にキナ臭い匂いを嗅ぎ取って、瞬時に何かを直感しただろう。但し、彼がその時、裕仁の手に銃を見たかどうかは判らない。狡猾な裕仁は咄嗟に銃を床に捨てていた。
徳川侍従が護衛官に言った。「陛下の前で子供が粗相をしたので、たしなめていたところだ。お前は何か見たのか?」
男は床に落ちている銃に視線を貼り付けていたが、慌てて目を逸らし、「いえ、何も・・・」 そう言って、素早くドアを閉めた。
 
 
 
 再び三人きりになった部屋で(実際には、二人と一匹の兎だったが)、鬼畜の言葉を吐いたのは裕仁だった。「あれは、いいのか?」 銃撃を見た男をそのまま放置しておいても良いのか、とこの卑怯者は言ったのだ。
すると、侍従のほうも宦官さながらの腹黒い男で、震えている私のほうへ寄って来て、「もう一度、泣け」と脅した。大声で泣いて、先ほどの男を呼べというわけだった。けれど、幼児の細い喉から出る悲鳴は無かった。そこで侍従は砒素を塗った毒針を私の首筋に突き刺して泣かせたが、それでも護衛官は一向に現れなかった。
結局、舌打ちしながら、徳川侍従自らがドアを細く開けて、呼ぶと、ようやく男が不安そうな顔で入って来た。 
 
 
 
一発目は天皇裕仁が撃った。膝を崩して倒れる男を、二発目と三発目は徳川侍従が撃った。
おびえた子供は睡眠薬の注射で倒されて、その傍に、空になった小型銃が投げ捨てられた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
<徳川義寛侍従>